↑ カムナガラノミチウタの一例



引き続きカタカムナ文献の内容そのものについて吟味していきましょう。

カタカムナ文献に示されている言葉が日本語そのものであることは、先に説明しましたが、少し例を挙げてみましょう。

「ハシ」という言葉があります。
カタカムナ文献では「ハ」を示す(シ)ということになります。
「シ」という音声符は、観測ポイントに示されるという意味です。
私達人間は、主に電気反応によって物事を把握していますから、音声符の中の小円は電気性を示す「イ」と同じ位置にあります。



現代の日本語で「ハシ」と発音するものには、「端」「橋」「箸」などがありますね。一見これらには何の共通項もないように見えますが、抽象性を上げて推察してみますと、これらの言葉にある特徴的な共通する意味を見い出すことができます。それはどの言葉も「2点の極」を示しているということです。「端」は、ある地点から見て端があるということですから、それは観測点と対象点という2点ということになります。「橋」も、河川などに架かるわけですから、手前と川向こうという2点に架かっているわけです。また「箸」も、2つのスティック状のものに指を挟んで使用するものですから、当然そこにも2点を確認することができます。

こういった意見を述べますと、「こじつけ」ではないのか?と思われる方もいらっしゃいます。なぜそのように感じるのかノということについて、また更に推測してみますとノ それは順番の問題が大きいのでは?と考えられます。現代日本語として通用している意味を先に知ったのですから、それまでの経緯を理解することは、過去の経緯を調べたり連想したりする行程が必要です。またそのデータを元に共通する意味を判断するという能力も問われますから、たいていの場合「面倒臭いノ 現代語の意味さえ知っていれば、過去の話などどうでもいい」という考えがすぐに頭をよぎり、簡単に物事を片付けようと、「こじつけ」と非難することで結着させるケースが多いように感じられます。要するに「そんな議論に何か具体的な得があるのか?」という即物的な損得感情がまず一番に働いているのです。
私は、今現在はこの一文にもならないことを検証してみようとしているのです。しかしながら金銭的な意味合いは別にしても、この検証作業はこの先の人間社会にとって非常に重要な示唆を与えることになるのではないか?と感じています。

このサイトをここまでお読み頂いた方には、おそらくそういった浅はかな損得感情を抱いている方は少ないと思われますので(品性のある知的な道楽者といったところでしょうかノ)、更に続けてみましょう。
カタカムナを知るコツは「遡ること」です。川の流れを見て、川を構成している水はその川上から流れてきていることを知ることにあるのです。
( それをカタカムナ文献では「カミ」と呼んでいます。白髪の老人のような「神」のイメージはそこには微塵もありません。)



「ハシ」に関して、カタカムナ文献には「アメツチネハシマリ」というウタがあります。
古事記には「天地初發之時」という文章がありますし、 主要な神道関係文献から外れた古文書にも「天地のはじまり」という文言が多いです。普通に現代語の意味合いのみで読んでみますと、文字通り「天地のはじまり」「天地創造の時」という意味になってしまいます。多くのスピリチュアルや神秘主義を指向する人達はそれで満足していますが、前述のように「ハシ」に「2点の極が示されたもの」という根源的な意味があったとしたらどうでしょう?「天地のはじまり」という意味と同時に、奥に隠れた本来の意味が見えてくるのではないでしょうか。

「アメ」は「アマ」が現象方向にシフトしたことを表しています。
(※「アマ」についてはこちらも参照ください。 )



「アメ」を「天」としてしまいますと、「アメ」も「アマ」も「天」で済ませてしまうことになりますが、それではなぜ別の表記にしているのか?という点については意味不明となってしまいます。カタカムナ文献では非常に明解です。「アメ」は「アマ、現象方向の基礎単位」と「イ、現象的電気性の単位」の中間状態です。また「雨、飴」の言葉にデライブされたように、ウェットな状態であることも同時に示しているのです。

「ツチ」は「個々のものはエネルギー供給を受けることにより持続している」という意味合いです。
「個々」という意味合いは「ひとつ、ふたつ」のような言葉や、「ひとつずつ(古語では、づつ)」、また「津々浦々」という言葉などから連想できるのではないでしょうか? 
持続的エネルギー供給という意味合いは、「血」「地」という言葉から連想できるのではないでしょうか?
またこの「ツチ」という言葉は「ウヅ、渦」という言葉と密接に関係していることも、その図象から示唆される意味によって理解できます。



「ネ」という言葉には、その名の通り「根」の意味があります。またそれと同時に「ルート」つまり平方根の意味合いがあります。「ツ」の形状と比較してみますと、軸や場の上にあるポジションから外れた中間は「ツ」の軸と場の対向に対して、まさに平方根を示しています。このポジションが事象の物性である「アメツチ」の根源であると説明しているようです。



では、その「アメツチ」の「ネ」は何なのか?
それをカタカムナ文献では「ハシマリ」と説明しています。 「ハシ」と「マリ」です。「ハシ」は先に説明した通りです。「マリ」には、「鞠、毬」と連想されますように球体のイメージがありますね。カタカムナ文献では、その「マリ」を具体的に説明した場合は「マワリ」であるとしています。一巡して循環すれば、それは「マリ」になるというわけです。またそれは「空間時間、マ」を割る、つまり分割した状態であるとも説明しています。
「アマ」のような全体から、分離して個別の単位のように観測される状態です。これは「シマ」にも似ていますが、相似した現象としては生体の細胞分裂の方がイメージし易いかもしれませんね。
この「マリ」は、「タマ」という現象方向の粒子に対してエネルギーとして機能する流動的な粒子です。それは「タマ」の素材が「マリ」であることを示しています。



極を2点持つ「ハシ」と、循環する「マリ」と聞いて、物理に明るい方ならば、ある理論を連想されるのではないでしょうか? そうです。「超ひも理論」です。
超ひも理論は、万物は「開いた端を持つひも」と「閉じた輪ゴムのような形状のひも」から成り立っており、それが自然界の最小部品であるという理論です。電子、クォークなどの違いは、そのひもの振動数の違いによって発現する状態であって、根本的には同じものノ「ひも」であるとしています。
物理に詳しくない方も、この説明を聞いたらどうでしょう? 日本人らしい感性を持ち合わせている人ならば、「アメツチネハシマリ」という言葉に、超ひも理論に似た意味を感じない人はいないのではないでしょうか?

正確には、カタカムナ文献では「ハシマリ」は「ひも」ではなく「ウヅ、渦」であるとしています。渦の両端が確認できる状態は「ハシ」で、渦がしっかりと巻かれて、端が確認できない状態は「マリ」だと言っているのです。自然界にとって、渦は非常によく観測される現象です。電気などの振動にも渦は観測されますし、夜空を見上げれば、銀河は渦を巻き、夜空の星は時間経過を伴って観察すれば、それは渦を巻いています。風や雲など気候も日常的に渦巻いています。「ウヅ」「ハシマリ」の図象は、無駄をそぎ落とした非常に率直な表現で、自然現象を表しているといえるのではないでしょうか。

(※超ひも理論は未だ完成には至っていませんが、相対性理論と量子論の橋渡しとなる理論です。それまでの排他的な発想とは異なる、非常に中庸的で抽象的な優れた理論であるといえるでしょう。)

また文献異本には次のような表現もあります。
「端」の両端のうち、片側のみを指向することは「恥」であるというのです。
(恥→「ハチ」、端の状態を持続させること)
つまり極端な指向性を恥であると認識していたのです。現代社会には、専門(スペシャル)を指向することを良しとする風潮がありますが、カタカムナの世界観では、総合(ゼネラル)な指向こそが素晴らしいノと見ていたようです。
(専門スペシャルとは、総合的ゼネラルな能力を求めて学習や経験をした結果として発生した得意分野であると捉えていたため、カタカムナの指向性のプライオリティーは、まず総合ゼネラルにあるのです。)
ですから前述しました図のように、現代語のみの解釈で満足し、源流を遡らないという極端さは、カタカムナの観点からしますと、それは「恥」なのです。中庸を尊ぶ思想などは、おそらくこの辺りに源流があるのではないでしょうか?



「ハシ」を「恥」に結び付けると、一部の人はこのように考えるのではないでしょうか? いわゆる駄洒落であったり、政治家や企業トップが訓示などの際に話す例え話の類いと同じではないかとノ
そういった思考が発生する背景には、前述の「現代日本語に対して、その源流を遡れるか否か 」という問題も当然あるのですが、もうひとつ別の背景としては「もっともらしさ」の問題があると考えられます。 それは「既存のアカデミズムに対する妄信」と言い換えることもできます。

例えば、カタカムナ文献には「クソ」という言葉が登場します。現代日本語では「糞」という意味で捉えられています。主に排泄物を意味する言葉ですね。それを現代の日本人は下品な言葉であると考えていますが、前述の源流を遡るノという作業を試みてみますと、また別の側面が見えてきます。
当時、カタカムナを源流とする言葉を使用した人達は、漢文を使用した支配層からすれば、下賤な階級として見做されていたのですから、当然その人達の使用する言葉は下品なものであるという位置付けとされていたはずです。カタカムナに残された言葉に、現代では下品な言葉として認識されているものが多いのは、その辺りの歴史的な背景が関係しているのではないか?ということが考えられるのです。アイヌ、沖縄、サンカなどへの差別感情によって、原日本人に関する研究が大幅に遅れた事情と良く似ていますね。

カタカムナ文献による「クソ」の図象が示す概要は次のようなものです。 「ソ」については下図をご覧ください。「ク」についてはこちらのリンクをご参照ください。



「クソ」というのは「ク」のフレキシビリティーにより、該当する軌道から外れた(外ソト、逸れるノの意味)状態を示しているのです。それは該当軌道による周回という単位から、外域へ遊離したように観測されるため、日常的な言葉の「糞」の意味にも転じたのだと推測されます。
ここで考えてみて頂きたいのは、「該当軌道による周回という単位から、外域へ遊離ノ」という表現ならば、信憑性があるように感じるが、「クソ」と聞くと低俗なものと決めつけてしまうノという感覚です。これが「もっともらしさ」の問題なのです。本質よりも体裁を優先してしまう現代人特有の「発想の癖」ということもできるでしょう。排泄行為を揶揄して喜んでいる小学生の姿は、大人の自称知識人にも、そのまま当てはまるということなのです。

「ハシマリ」や「クソ」と同じような例はカタカムナにはいくらでもあります。
「ヒフミヨイ・・・」「カケ」では納得できないが、「複素平面上の虚数の乗算による回転と変化」なら納得してしまうノ 「マワリテメクル」では納得できないが、 「パリティー変換」ならば納得してしまうノ
などなど、挙げればきりがありません。
同じ内容でも、「もっともらしい」表現、つまり権威に後押しされた表現ならば受け付けるが、そうでなければ何も配慮もなく排除してしまうノという危うさが、現代人には常に付きまとっているのです。
もしその危険性が感じられないならば、それは前述の「進歩したつもりの人間」と同じです。
この危うさの背景には、やはり近代化による職業などの専門化の問題があるでしょう。生きるために必要な生命勘のようなものは、自分で食べ物を確保し、住処を作ることなどの生物としての基本的行動から得られるはずのものですが、これを他人に代替えさせてしまったために、トレーニング不足から「自発的選択」という行動に極端に疎くなっているのです。これを食べたら美味しいのか?身体に害はないのか? そういったことさえ自分自身の感覚では判別できず、本や先生という「権威」にいちいち確認しているのが現代人の実情なのです。

内容が大切なはずの芸術分野でも同じような問題が起こっています。
芸術ですから、その作品に惹かれたのならば、それだけで良いはずですが、実際には「有名な作者であるのか、今評判の作品なのか、どのような権威の後押しがあるのか、金銭的な価値はどれほどかノ」というような要件が「好み」という私的な感覚を上回っているのです。具体的には「○○賞を受賞したノ」「今ニューヨークで話題のノ」「○○会の期待の新人」「売り上げ数が○○を突破」などの、いわゆる「話題」です。
例えば全くの一般の人々が、王立芸術アカデミーというような組織があった場合、その傘下にある芸術家ならば手放しで賞賛するが、市井の何の後押しもない芸術家は全く相手にしないというようなケースは多いですね。また、芸術家を名乗らない原始的な生活を営む民族の民芸品などは、当初全く芸術的価値など無いと思われていました。しかし一度、著明な権威がそれを認めると、今度は手放しでその民芸品を有り難がり、その価格が高騰してしまうノというケースもありましたね。これも同じ問題パターンの亜種であると言えるでしょう。

佐村河内守という作曲家を名乗る人物をご存知でしょうか? 話題になりましたので耳にされた方も多いと思います。この人物の作品として発表された作品は、実はゴーストライターによるもので、本人は作曲には関与していなかったのです。しかし世間は、彼が「広島出身の被爆二世」「聴覚障害のある不遇な作曲家」である事情を宣伝したことや、東北大震災に関しての慰問活動をしていたこと、などなどが、ちょうど前述の「内容と無縁の権威や体裁」として機能してしまったために、完全に思考停止してしまったのです。そして報道する側は、それを「話題」と捉えて過剰宣伝し、結果として作品は大ヒットし、CDや関連商品はクラッシク分野の売り上げとしては異例の高成績となったのでした。このケースもやはり同じ問題の亜種であると言えますね。
(※現在、佐村河内氏の様々なプロフィールについては、それ自体が虚偽であることも指摘されています。)

私はこの件に関係したある経験があります。
とある芸術大学の先生が佐村河内氏を大絶賛していたのです。しかもその人格を非常に誉め称えて、その経歴や行動を学生にも話して、佐村河内氏を推奨しようとおっしゃっていました。私はそれについて意見を求められましたので、やんわりと「作品はともかく、人物には胡散臭さを感じます。もう少し様子を見てはいかがですか」と助言しましたが、その先生は立腹されて「人を見る目がない。人生経験が足らないからだ」とおっしゃいました。おそらく今この話を蒸し返せば「そんなことを言った覚えはない!」と、また激怒することは間違いないでしょう。
この方は大学教員ですから、体裁としては世間に認知された知識人であるはずです。この現代社会の状況は「進歩した人間」の社会と本当に言えるのでしょうか? 
世間の体裁を重要視する風潮を利用し、内容が伴わないまま伸し上がってきたはずの人物が、また同じ手法で世間を渡ってきた人物に騙されているノというこの悪循環。これを愚かと言わず何を愚かというのでしょうか?
何を選択し、何を正しいと判断するのかノは、その人ごとの知性感性の程度に拠るわけです。もし判断ミスを経験したならば、その時に方向性を正さなければ、真の知性感性の向上は永遠にあり得ませんねノ。

(私個人の当時の「私感」としましては、「ヴァイオリンのためのソナチネ」を除く佐村河内名義作品にそれほど興味は持てませんでした。また佐村河内氏自身には麻原彰晃との相似性を感じずにはいられませんでした。)

みなさんはどのように判断されるのでしょう?



カタカムナ文献 その信憑性についての考察 6 へ続く

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