↑ カタカムナ文献 第48首



カタカムナ文献に関して、日常生活とはかけ離れた特殊な物理を示しているものなのではないか…という勘違いをされている方もいらっしゃるかもしれません。もちろんそういった方の多くは、現行の科学についても、日常生活とはかけ離れた、雲の上で、何やら難解な数式をひねくり回しているようなイメージを抱かれていることでしょう。ところが、現行の科学であれ、カタカムナ文献であれ、この世界をありのままに記述しようと試みたものに過ぎないのです。小学生の頃、風景を見てそれを写生したという行動と大差ありません。私達の身の回りに起こる様々な日常的な事象から、目に見えないミクロの事象、またあまりに巨大な宇宙の事象、そして現行の科学では極力蚊屋の外に置いておきたい「心」の問題に関してまで、統一して理解できるルールを求め、古来より人間は、その努力をしてきたのです。またそのような行動を希求する心情は、努力というよりも本能なのかもしれません。

このような物理(モノノコトワリ)を難しいと感じる背景には、おそらく現行の学校教育、特に受験教育の弊害があるのでしょうが、個人的には、その主な原因には、現代人の抽象能力低下が挙げられると思っています。その抽象能力(ヒヒキ)に焦点をあてながら、カタカムナの示す「心、勘、直感、生物的本能」について、その概論を説明していきましょう。




上のような図表を見た時、私達人間はその関係性(カカハリ、カカワリ)から、共通するパターンを抽象し、数の概念を知ることができます。特に具体的な数学という学問を知らない子供の時期でも、それは可能です。 この場合、羅列される物は、無機物でも生物でも幾何学図形でも何でも良いのです。種類そのものには全く関係ありません。関係しているのは、そのそれぞれの種類毎に規則的に増えて行く量と単位の規則です。もちろん「量と単位」なとどいう用語を知る必要もありません。ただそれが示す意味を知るのみです。そしてもし幼児が、そこで数字というものを習えば、「1、2、3、4…」の示す意味を知ることになるのでしょう。

次に上の図をご覧ください。
図上の場合、前述のパターンに従えば、魚は5匹ということになります。ところが、魚の種別というパータンを読み取れば、今度はマグロ2匹、サバ1匹、その他名称不明の魚2匹ということになります。種類を更に細かく分類するというのもまた抽象です。図下の場合は、同じトマトですがサイズが様々です。前述のパターンに従えば、トマトは5個ですが、サイズで分類すれば、トマト大1個、トマト中2個、トマト小4個です。サイズで分類するのもまた抽象能力に拠ります。

このように、私達は目的とした類別のターゲットによって、同じ状況においても、異なる類別をすることができます。抽象能力の特徴は、その重畳性にあるのです。しかし、この能力が低下していると「類別の選択」を間違えてしまうのです。現代人の特徴的な傾向性であるサイコパス(共感性欠落)も、この能力に極端に疎いのです。サイコパス傾向が強いとダブルミーニングを持つ言葉や、隠喩、暗喩を理解できないのです。
また、私達現代人が様々な事象に対して、「間違った」と認識する時は、ほとんどの場合、「類別の選択」ではなく、トマトをレモンと間違えるようなケースや、数量を数え間違えるなどの単純なケースです。そのケースならば、ほとんどの人はそれを「間違った」と認識することができます。ところがこの「類別の選択」についてのミスに関しては、気が付くことができない人が非常に多いのです。さすがに今示しましたの例で、それを間違えるような人は少ないのですが、それが抽象的な事象になればなるほど、その誤認の発生率は高くなっていきます。(この例において、類別の選択ミスによって「間違える」ということは、トマトの些細な違いに惑わされて数が数えられない…などを意味します。)

サイコパスのようなコミュニケーション異常とは、トマトの個数を問題にして会話している時に、サイズの話を持ち出すような問題と言えるでしょう。もちろん、あまりにサイズが違うものを、同じものとして分配されて苦情を言うのはサイコパス傾向ではありません。その場合は、サイズが十分考慮される状況であるのにも関らず、それを配慮しないで配付する… そちらの側の方がサイコパス傾向が強いと言えるでしょう。また、反対に、受け取る側が些細なサイズの違いに苦情を言うのもサイコパス傾向があると言えるでしょう。
このような話は、通常「思い遣り」「配慮」「気持ち」など、いわゆる「心」の問題として捉えられています。カタカムナでは、それを「ヒヒキ」する能力、つまり抽象性と共感性の問題として捉えているのです。そして現代人が、抽象性、共感性という別々の言葉で捉えていることを、同じ「ヒヒキ」という言葉で抽象し理解しているのです。カタカムナでは、抽象能力が高いことが共感性の高いこと(思い遣り、配慮、気持ちなどの「心」があること)として示されているのです。
そうなりますと、前述のトマトの分配の問題は、不平等な分配を悪意で行っている者は、まだマシであり、一番問題のある人物とは、その不平等が理解できない人物であることが分かります。つまり、悪いことが分からないのです。「個数で分配せよと言われたから、そのようにしたまでだ。規則に従っているのだから自分は正しい…」という感覚ですね。ルールを脳で理解するのみであり、そこに他者(広域)への配慮(ヒヒキ)が欠損しているのです。
また、こういったケースバイケースと言われるような感性は、相対性と呼ばれる物理と一致しています。カタカムナ文献に記されている物理は「個 vs 個」、あるいは限られたエリアである「系 vs 系」ばかりでなく、「個 vs 系」「個 vs 全体」という相対性を持つ物理なのです。それは、心の問題として現代人が扱っている「人間のなりふり」に関しても同様の物理として示されています。

カタカムナの記述方法とは、その抽象方式において、究極に抽象された表現です。
人間は、自然を観察して、それを絵にしたり、文字、数字などの記号を利用して、それを記述しています。
これらは全て自然(楢崎氏の言葉によれば天然)の仕組みを知ることを、共通の方法論を使うことによって、他者にも共有できるようにしようとする行為と言えます。
社会や人間、また個々の人間の感情さえも自然現象の一部でしかありません。そういった意味においては、絵画、小説、音楽などの芸術も、物理学も数学も医学も、それらは皆同じものを目指しているに過ぎません。本来人間は抽象する能力によって、これらが同じものであることを理解することができます。それが、生物が皆生まれながらに「アマ」の本来性を写された(ウツシマツル)ことによって備えている本能であり、勘、直感、生物的本能と言われるものの正体なのです。
ところが現代人は、生活形態の激変により、周辺の自然環境から得られる情報を素直に受け取ることができなくなってしまいました。それらが同じものであることが分からなくなってしまったのです。そのため、理数系と文系…であるとか、科学と芸術は別物…であるとか、そういったスタンスが定着してしまい、また現代社会特有の「ジャンル分けする風潮」や「専門性を優れたものとする傾向」により、共通する部分を抽出する能力が極度に低下してしまったのです。

絵画も数式も個人的な日記でさえも、自然現象を記述したものには違いありません。それぞれの方法論によって、それを実現しているのですが、どれだけ広範囲に適応できるのか?と言うことになりますと、かなり不足のある方式であることは確かです。それゆえに、そのそれぞれを好む人達によって、様々な主義、流派などが生まれたわけです。(数学は比較的その範囲が広かったために、自然科学において採用されているのでしょう。)
カタカムナ文献も当然その方法論の1つに過ぎないのですが、その中において、抽象(雑多な事象から共通する部分を抽出すること)を主体として、その抽象した型に共鳴して(ヒヒキ)、それを理解する… つまり動物的体感によって、それを知るという方式を採用しているのは、現代の人間社会において唯一無比のものです。そしてその方式で記述しているからこそ、他の方式よりも遥かに広範囲に適用可能なものとなっているのです。ただ残念なことに、抽象能力や共感性などが劣化した多くの現代人にとっては、この文献の意味することを正確に理解することは、非常に難しいものとなってしまったようです。
しかしながら、現代人といえども生物ですから、本来的には、この能力をきちんと持ち合わせていたはずです。少なくとも赤ん坊の段階では、それを確実に持っていたのですから、取り戻す気になりさえすれば、それは不可能ではないのです。言い方を変えれば、「カタカムナ文献は赤ん坊でも(には)理解できる」ということです。




この抽象という能力を説明するために、しばしばこのサイトに寄せられる典型的なご意見を例にしてみましょう。
この検証作業は、似た傾向のご意見ご質問に対する良いFAQとして活用できるはずです。

「宇野氏は、物理が専門では無いからカタカムナ文献が分かっていない。楢崎先生の解説とは違う。だから間違いだ…」という意見があります。 また一方で、「カタカムナは日本の心を詠ったものであるから、物理や数学などを持ち出すのは間違いだ。楢崎氏のような難しい科学用語を並べた冷たい解釈より、宇野先生の解釈の方にシンパシーを持つ…」という意見もあります。これらは一見すると相反する意見のように見えますが、実は共通する問題を含んでいます。そうです。抽象性の欠落です。カタカムナ文献第一首冒頭「カタカムナ ヒヒキ マノスヘシ」の欠落ですから、大変な問題です。カタカムナにとって一番大事な観点を欠いているのにも関らず、断罪的にカタカムナを語ってしまっているのです。
これらの意見をお持ちになる方々に共通する疑問とは、おそらく次のようなものでしょう…「なぜ同じウタ、あるいは同じ言葉なのに、人によって、また場合によって対訳が違うのだろう?」 そしてその疑問は次のような結論を導き出します… 「そうだ、きっとそのどちらかが正解で、どちらかは間違いなのだ! 自分の好みはこちらの方だ!」
狭い範疇の好き嫌いを優先し、共通する型を見い出すことに慣れていない現代人は、しばしばこのような傾向に陥りがちになるのです。
(※更に別の意見としては、「カタカムナには神の代の歴史が記されているのだから、物理だの医学だのは関係ない。だから宇野も楢崎も間違いだ…」というものがあります。この解釈には「古文書=歴史書」の既成概念が未だ抜けきれていない傾向が見受けられます。この場合、カタカムナの時代考証についての誤認が一番の原因であると思われます。カタカムナに登場する文字列は、後代に様々な人物に名前として使用されています。現代においてもそれは存続しています。それゆえ、古代史におけるトピックに登場する人物名(神名)に惑わされて、本来の意味を見失っているのです。
例えば「正義 / まさよし」という名前の人物がいたとします。その意味を「正しい事や義を重んじる」と解釈する人に対して、「それは違う。それは名前だ!」と批判する人がいたらどうでしょう? 賢明な方々には、もはや説明不要だと思いますが、「人に名付ければ名前だが、その言葉には本来の意味がある」ということが正解ですね。子供に名前をつける際に、名前という以上の意味がない名前をつける人はいないでしょう。そこには必ず何かしらの希望や好ましい語感などを背景を持たせるはずです。「ヒヒキ」の欠落はこういったところにも顕著に現れます。)

かつての相似象会誌において、楢崎氏は、主に物理学の例を挙げて文献を説明し、宇野氏は、主に社会学や、時に医学の例を挙げて、文献を説明しました。これは理数系や文系などの違いや、ましてや、どちらかが解釈を間違ったということなどではなく、説明のために、同じことを別の角度から「例え」を挙げて解説したにすぎないのです。



カタカムナは抽象方式で記述されていますから、ある言語を別の言語に訳すような扱いで捉えようとしても無理なのです。
例えば、「タカマ」=「全宇宙球」のようなケースです。もちろんこれも間違いではありません。
外国語訳の「花」=「FLOWER」のようなものですね。
ところがカタカムナは、そのような1対1の絶対的な関係性で対訳するべきものではないのです。抽象し、共振的に示されたものなのです。もしそれを「絶対的な関係性としなければならない」と主張してしまえば、前述の例では「1、2、3、4…は、トマトのみに使用できる概念」というような問題が発生してしまいます。
カタカムナ文献では、表層にその型が見える見えないに関わらず、同様の設定、形状、性質などの相似が見受けられるものは、同じ名称として扱われています。ですから、例えば人の細胞を「アマ」の1つ1つの流動的なエネルギーと 設定すれば、「タカマ」は人体そのものなのです。
「タカマ」=「全宇宙球」、「タカマ」=「人体」、このどちらも正解ということになります。
(もちろん、どちらも設定が異なれば、不正解になります。類別の選択の問題です。)

また前出の「ハナ」ならば、 「ハナ」→「花」「鼻」「話す」(「離れる」※「レ」を伴って反意的になる)…ということです。



こういった一見異なる事象の共通項をくくり出して、それを確認する能力を抽象… つまり「ヒヒキ」として重要視しているのがカタカムナ文献ですから、私達の勉強会においても、示した幾つかの例を丸暗記しただけでは、全く意味がないことを、参加者の皆様に常々確認して頂いています。汎用性を持って、はじめてカタカムナの1つ1つの物理を理解したと言えます。楢崎氏、宇野氏もこの点について会誌上で何度も繰り返し説明していました。
ただし、これは多くの神秘主義思想を嗜好する人や団体が行っているような、適当な解釈が幾らでも出来るという意味では決してありません。そういったケースはすぐに理論破綻しますし、実験で検証もできませんから、すぐにボロが出てしまいます。正確に単位設定を見極める能力が必要なのです。類別の選択… つまり抽象能力が必要です。



この抽象能力は、脳の働きではないことが幾つかの事例から確認されています。「イグ・ノーベル賞」で一躍有名になった「粘菌の迷路」などが、その代表例でしょう。この点についても多くの現代人は誤認しています。つまり抽象能力は「脳の作用」の専売特許であるかのような錯覚です。これはメディアなどが繰り返し発信した「脳の優位性」の情報に惑わされた結果でしょう。勿論、そういった情報が存在していても体感が鋭ければ、それに惑わされることもないのですが…。 
生物には脳を持たないものが数多く存在しています。種の数としても生存数としても、そちらの方が多いぐらいです。それでもこの生物的本能は確かに彼等に備わっているのです。その抽象能力により、彼等は自らの生存を維持し、子孫も確実に残しているのです。
一方、私達現代人は、その脳への過剰な期待から、直感の在り処を間違える…という問題に直面しています。心や精神、自然を嗜好しているはずの神秘主義思想の人達にも、この傾向性は顕著です。サイト序文でも説明しましたように、神秘主義思想の人達は、彼等が差別視している悪いイメージの現代人(経済優先、都会的指向)と、趣味的な嗜好が違うというだけで、抽象性能に関しては大差ないからです。抽象能力=直感という点において、私達現代人は粘菌に負けているのです。現代人は「人間は人間以外の生物よりも優れている」という幻想を抱きがちです。例え、それについて少し譲歩した意見を持つ人であっても、「運動能力には負けても、判断能力など、脳の機能では負けていない」という感情が、どこかにあることが多いのです。確かに人間は巨大な脳を持っています。しかしながら、それと判断能力が良いこととはまた別の問題なのです。

例えば、こういう経験はないでしょうか?
駅などで待ち合わせをしたとします。 知り合いではなく、仕事で初めて合う人物との待ち合わせだった場合、相手の顔は知りませんから、事前の電話やメールなどのイメージから相手がどんな人物かを想像するはずです。待ち合わせの時間、その場所にいた人を見つけ、目が合い、「あ、この人だ」と感じました。ところがその人物は自分が想像し推定した人物像よりも、かなり年齢が上に見えました。それで、そのまま声を掛けるのは一旦止めて、待ち合わせ場所を再確認したり、携帯電話で相手に直接電話してみたりしました。しかしその結果は、最初に出会ったその人物が待ち合わせの相手で正解だった…というような経験です。
このケースでは、2つの要素が関係しています。「最初の印象」… 俗に言う「ファースト・インプレッション」と、「情報による解析」です。難しい言葉ではなく平易な言葉に言い変えれば、「直感」と「思考」と言っても良いかもしれません。この2つの違いが、体感的な生物的本能と、脳の作用の違いなのです。

また次のような経験もあるのではないでしょうか?
飲食店に入って、メニューから料理を選ぶ際に、最初にこれが良いと思ったものがあったとします。(もちろん店頭の看板に釣られたのならば、その看板メニューの料理でも良いですし、席に案内されるまでに目に飛び込んできた別の席の料理でも構いません。)その後よくメニューを見たら、今の時期だけのお得なコースが載っていたのを見つけたため、最初の選択を止めて、お得なコースに切り替えた…というような経験です。その結果がどのようなものであったか? この場合もまたファースト・インプレッションが正解であったということが多いのではないでしょうか? お得だと思って選んだら、苦手な調味料が入っていて結局あまり食べられなかった…など、特に体調との関連があった場合は、ファースト・インプレッションの正解率はかなり高くなるはずです。若い世代は体調に余裕がありますから、このような多少のミスでも身体の方がそれを引き受けます。つまり身体が我慢して脳の選択ミスを補うのです。しかし、この行動は「折角お金を払ったのだから、損はしたくない」という経済的な現代社会における損得感情であって、生物的反応としては全く正しくないのです。野生の動物は体調に合わないものは食べませんし、仮に食べたとしてもすぐに吐き出してしまいます。

この2つの例は、体感が脳の判断に勝るケースを表しています。つまり人間にも、ちゃんと粘菌と同じような機能が残っているのです。ところが奇妙なことに、現代人は前述の「類別の選択」を間違えてしまうという問題がありますので、「体感」ではなく「脳の作用」の方を直感だと勘違いしているケースが多いのです。
特に神秘主義思想に深く傾倒していると、待ち合わせの際に自分の判断が不安になり、無用な行動を取ったことを「何かのお知らせ」と思ってしまい、「この人物はこれからのビジネスに問題があるのでは…」と考えてしまったり、体調が悪くなるメニューを選んだのは、「ここで身体を壊すことは、暫くゆっくり休めという、神や大いなる力からのメッセージだったのだ…」と受け取ってしまうのです。
「頭で物事を考えるよりも身体で覚える方が良い」 「自然は人智を超えたものである」… こういった表現は、確かに一般的な人から神秘主義思想の人にまで、広く通用しています。ところが、その「身体で覚えるとは何か?」「人智を超えるものは何か?」というところを選択ミスしてしまうと、途端にその格言は意味を成さなくなってしまいます。

神秘主義思想を持つ人達は、一般的な現代人との差別化から、「心」「精神」「神聖」といった概念を特に好みます 。もちろんこの「心」「精神」「神聖」といった方向性は、現代社会において非常に良い方向性であると、私は思っています。つまり私が批判しているのは、その「心」や「精神」などではなく、本人達がそのように神聖なものであると思っているものが、実は類別ミスによる、単なる自分の欲望や妄信だった場合のことを批判しているのです。しかも往々にして、この誤認に本人達が気付かない、あるいは気付きたがらないケースが多いために、派生する問題は拡大し続けているのです。(この場合、気付きたがらないケースの方が、治る確率は高いですね。気付いてはいるのですから…)

現代を代表する病に鬱病というものがあります。 またその病名で診断されなくとも、その傾向性は現代を生きる多くの人々が抱える問題です。これは他人に責任を押し付けられず、自分で全てを引き受けてしまう… いわば協調性が過剰である病と言えるかもしれません。最悪の場合「悪いのは全て自分だ」と自死してしまいます。一説には、他人に責任転嫁するのが得意なサイコパスが1人その集団にいるだけで、その周囲には鬱病が数多く発生するそうです。(新型鬱と呼ばれるものの一部には、逆にサイコパス傾向が見受けられますので、この場合は同一視しないこととします。個人的にはこの症例に鬱という言葉を使うべきではないのでは…と感じています。)
このような鬱病を煩っている人に対して、もし前述の「心の在り処を間違った神秘主義思想の持ち主や、それに類似する人」がアドバイスをしたとしたらどうなるでしょう? 
おそらく次のようなアドバイスになるでしょう…
「全てのものを愛さなくてはなりません。あなたが苦手としている人も実は愛で溢れているのです。相手がその感情を示さないのは、あなたの努力や理解が足りないからです。」 
また次のようなアドバイスもあるでしょう…
「あなたは成りたいものに全て成れる。あなたの人生は輝いている。あなたはやりたいように好きなように生きれば良いのです。」
また更に次のようなアドバイスもあるでしょう…
「あなたのその悪運には、先祖の悪縁が関係している。だからお墓を掃除するなどして、先祖供養すれば、きっと解決するでしょう。」また「あなたには力強い守護霊様が付いていらっしゃるから…」「あなたは中世の王侯貴族の生まれ変わりで、高貴な存在なのです…」などです。

これらのアドバイスについて、カタカムナ的な「心情、アマココロ」から考察してみますと…
まず最初のアドバイスには全く意味がありません。なぜならば、鬱病の人はすでに十分に相手を理解しようと努力をしてきたのです。むしろこのようなアドバイス をする方が相談相手への共感という理解が欠落しています。相手の現状や立場を考慮せずに、定型文で対処することはカタカムナの相対性の原理から外れています。

2つ目のアドバスはどうでしょう?
こちらは、このケースに関しては概ね妥当だと思われます。 相談者はサイコパス的な人物にやられて自信喪失していますから、一定の効果を上げるでしょう。しかしながら注意しなければならない点があります。それは、相談者が新型鬱の一部のような利己的な人物だった場合です。この場合は単に「我が儘の御墨付き」を貰っただけとなり、それにより身勝手な行動が助長されれば、増々相談者は周囲から孤立していくでしょう。(ここには類別の再分類化の能力である「ヒヒキ」が関係しています。)このアドバイス(我が儘の御墨付き)を望む傾向は、相談者だけでなく、アドバイスをしている神秘主義思想者にも見受けられるケースが非常に多いので、その点にも注意が必要です。
またもう1つの注意点として、現実には鬱病の人達は、そのようにやりたいように振る舞えないのですから、それに対しての具体的なアドバイスにはなっていない…ということを忘れてはいけません。
現代人の多くは、こういった美しい言葉に酔いしれる傾向がありますから、根本解決に至らない一時的な即効薬の役目を果たすものは、かえって危険です。麻薬の役割を果たしてしまうのです。ですから、このアドバイスは「一時的即効薬が必要な緊急の場合」のみに適用する必要があるのです。
しかしながらアドバイスする側は、この言葉を発していれば、「説教臭くなく、良い人に思われる」というメリットもありますので、このアドバイスの方法は、かなり普及しているはずです。このアドバイス方式の是非は、アドバイスする人の人格に大きく左右されると言えるでしょう。

3つ目の幾つかのアドバイスは、2つ目の例で挙げた「麻薬的な役割」が非常に顕著に現れてしまいます。
良くも悪くも、人に何かを相談するということは、救いを求めているのですから、その救いになるのであれば、フィクションでも何でも良い…という考え方もあるでしょう。私も「一時的即効薬が必要な緊急の場合(自殺の徴候など)」という前提があれば、それも認めましょう。しかしながら、これらは恒久的な解決方法ではありませんから、いずれその薬が切れてくるのです。そうなりますと、また次のストーリーを求めて相談に訪れてしまいます。相談を商売としていれば、それは商売繁盛で良いのでしょうが、相談者が真に救われているわけではありません。そこで、もし同じストーリーを話すしかなく、それでも相談者の不安が払拭できなければ、今度はその相談者は、別の霊能力者などの神秘主義思想の人のところへ行き、同じようなストーリーの確認を求めるでしょう。つまり麻薬の売人を渡り歩くような状態になってしまうのです。

それでは、カタカムナ文献では、それをどのように取り扱うのでしょう?
カタカムナ文献異本には、次のような示しがあります。
「カムナカラ カナシクルシミ ヨシリナワ ウチソトカヨフ コモリミツ ヤクサヒトミチ カムカヘル」
相似象の概要解説には…
「人の世の悲しみ苦しみは、ヨジリ縄の如く、人々全体の悲しみであり、苦しみである。それは籠の内の水と外の水は、通いあって居るような関係である。人の道は、無限のカムに関する認識が基本であり、八方に分化してゆきながら、つねにカムにカヘって考えることである。…この教えは、同情や励ましの精神、他人の悲しみや苦しみとなる原因を作らないという連帯的な考慮を、人の道として示したものである。」とあります。
人の道としての道徳観が示されていますね。これが他の宗教などの教示と何が違うのでしょう?
実は、この解説には一見、具体案が示されていないように見えますが、ウタを図象として表記して抽象することで、その意味することが良く分かってくるように示されているのです。

そこで、このウタの示す「カタ」を抽象し、精神性から一旦離れて、原子分子のような無機物にモデルを求めてみましょう。原子分子などでいう「カナシ」とは 、「カナ、金」などの語感で分かりますように、固い構造が定着している様子です。「クルシ」はフレキシビリティー(自由度)が、分極することにより損なわれている様子です。これらはその構造が捩れることによって、その状態が定着(ナ)しているのですが、全体(ワ)としては、それらを構成しているエネルギーの役割を果たす要素は、固い原子であっても、その原子という単位と周辺の外域を出入りしている(ウチソトカヨフ)のです。また、この出入りしているエネルギーの役割を果たす要素(原子ならば電子や原子核子、分子ならば原子)が、その原子分子そのものを形成している、いわば部品(コモリミツ)です。
ですから、そういった表層の単位ではなく、それを構成している部品の単位へ戻してしまえば、表層の単位の状態にある様々な問題は解消するのです。つまり還元「カムカヘル」ですね。
最近問題になっている「危険ドラッグ」や、猛毒である青酸カリ(シアン化カリウム)なども、分解してしまえば単なる炭素、水素、窒素、カリウムなどの身近な元素に過ぎません。構造の仕方如何によって毒性が発現しているのです。つまり「カムカヘル」することで、その毒性は取り除く(解除する)ことができます。

鬱病は、いわば社会の構造がつくり出した毒性にやられている病なのです。 ですから、その構造を分解してしまう必要があります。例えば、鬱の原因が前述のサイコパスだった場合、そのサイコパスが存在する限り、周辺の人間関係という構造は変わりませんので、まずその対処が必要となります。
サイコパスは究極の排他主義者ですから、自分に必要なことを手に入れるためには、コツコツと努力することより、ライバルを蹴落としたり、邪魔者を排除することで、最短でそれを実現しようとします。また、このサイコパスにより周辺の人間関係も恐怖支配されていますので、それに逆らうことは難しい状況が多いでしょう。
鬱病の人はそれに怯えきっていますので、その人物の名前を聞くことも最初は難しいでしょう。しかしながら、もしアドバイスする人に気持ちがあれば、他の例を挙げて、サイコパスの問題こそが病の根幹であり、決して相談者に非があるのではないことを、きちんと理解してもらうべきです。時間をかけて問題の本質を聞き出すことが必要なのです。
そして問題の人物が特定できたのならば、そこから離れることが可能かどうか?を確認しましょう。離れられるのならば、それでその構造は崩れます。もし離れられない状況ならば、周辺の恐怖支配を崩す努力をしなければなりません。サイコパスは、サイコパスにやられている同様の立場の人達に連絡を取り合えないように仕向けているはずですから、相談者ではなく、アドバイスする人がそれを取り持って、同様の説明をする必要があります。そうすることによって、周囲がその問題を共通の問題として認識することで、潮目が変わっていきます。これも構成要素の変更による全体の極性変化と言えるでしょう。




また、それらがいずれも困難な場合であっても、アドバイスする人が相談者の問題をよく把握することで、相談者が孤立した感情を持たずに済むことがあります。この場合、とんちんかんな理解の方向や、お節介のようなスタンスではだめです。本当に相手のことをよく知ろうとしなければ、それは難しいのです。表層の世話焼きでは、かえって空しくさせるばかりです。
鬱の傾向のある人は、非常に感受性が強いのです。つまり雑な感性とは真逆な性質ですから、上辺や体裁の優しさは簡単に見抜いてしまいます。
甘えた人は、例え相手の勘違いであっても、誉めてくれて、持ち上げてくれれば嬉しいのでしょうが、鬱病のような状態の人にはそれでは意味がありません。他人が自分の本意を良いところも悪いところも含めて、全て知って理解しているということ(ウチソトカヨフ)が肝心なのです。
また本当のことを知るというプロセスが、相談者にとって問題の根幹に向き合う良いきっかけとなります。構造された現状に浸かっていると、それが元々どういうことで、そのような構造になっているのかを忘れがちになるのです。ですから「カムカヘル」という作業を通じて、それをバラバラにほぐしていくことが必要です。

現状そういった辛い環境におかれていなくとも、かつての辛い環境を思い出して、再び鬱の状態になることもあります。このようなケースは「脳が悪さをしている」と言えます。
かつて協調性を発揮したことが報われず、排他性の強い人物や社会にやり込められ、酷い人生の一時期があったという経験を思い出し、その空しさから再発してしまうのです。
アドバイスする人はそれでも、その「共感性、協調性は素晴らしい能力」であることを、きちんと伝えなければなりません。例え世界にただひとりでも良いのです。それをちゃんと理解してくれる人がいて、その素晴らしい能力も、それにより発生してしまった辛さも空しさも、全て分かってもらえる… そこが肝心なのです。「ウチソトカヨフ」を実感し、「コモリミヅ」が外へ繋がっていることを実感することが大事なのです。

現代社会では、排他的で攻撃的な人物の方が圧倒的に経済的、権力的に成功します。それを世間は良いことのように言いますが、それは本来の幸福度とは全く関係ありません。それをアドバイザー、相談者ともに共感できれば、一時しのぎのような対処方法と違い、問題は根本的に解決するでしょう。それは、問題に対する「カタ」を体感したことになりますので、また同じようなサイコパスに遭遇しても、今度は、ただやられるだけのかつての自分には戻らないでしょう。

それから、前述のケースで、現状の人間関係の変化が難しい場合、転地療法は効果があります。「イヤシロチ」と呼ばれる電気の新陳代謝が活発なエリアでしばらく過ごすことにより、人間関係という構造よりも、更に根本的な構造である電子の単位で部品交換が可能となります。特に精神のダメージが実際の身体である内臓などに影響し、痛みなどがある場合は、まずこの転地療法から始めることが肝心です。より「カム」の方向(根源的で背景的なエネルギーの方向)へ「カヘル」のです。

※「カムカヘル」は現代語では「考える」と捉えがちです。もちろんその意味もありますが、現代人は何でも脳で捉える悪癖があります。その場合、眠るなど、充実したオフの時間を過ごすことが有効な「カムカヘル」となります。つまり、考えないことが「カムカヘル」である…と言うこともできるのです。

カタカムナは、このように具体的なテクニックを読み取ることができます。たまたまこのサイトをご覧の方で、同様のケースでお悩みの方がいらっしゃいましたら、一度活用してみてください。このサイトがその一助になれば幸いです。(※カタカムナの看板を掲げていても紛い物では実効性はありません。紛い物にはくれぐれもご注意頂きたいと思います。)
また繰り返しになりますが、鬱とは、根本的には共感性、協調性が高いことから発生した病的状態です。内省から自己を攻撃し過ぎるという問題が病的にさせているだけで、共感性、協調性は素晴らしい能力です。カタカムナでは、それをとても尊重し推奨しています。そういう方々には、是非ともご自身の共感性、協調性の高さに自信を持って頂きたいと思います。
サイコパスがカタカムナを理解することは絶対にできませんが、鬱の人には、カタカムナは理解しやすい傾向にあるといえるでしょう。現代人がカタカムナを理解しにくいと感じるのは、現代社会にサイコパス傾向があるためだと考えられます。また、鬱傾向に唯一カタカムナと違うところがあるとすれば、それは自死です。折角の共感性、協調性をそんなことで失うのは大きな社会的損失です。そこは絶対に思い留まるべきなのです。

 



カタカムナ文献 心、勘、直感、生物的本能について 2へ続く

 

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