↑ カタカムナ文献 第8首


サンプル3

以下は、実際に勉強会でお教えしている内容の一部分をピックアップして、サイト公開用に一部説明を加えたものです。不足している箇所もありますが、詳細は勉強会でご説明しています。
サンプルとして吟味して頂ければと思います。

テーマは「トキトコロ」という言葉に関するの基礎的部分の説明です。
現代を生きる人々が捉える一般的な「時間空間」という概念と、カタカムナの「トキトコロ」、
その違いを周辺の用語を絡めて、少しご紹介しています。

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よく「時間と空間」というような表現を耳にしますが、これは「時という間隔」と、「空という間隔」を示している言葉のようです。一般的には、時間は、時計やカレンダーのように一様に一方向に進行するもの、空間は、ある物と他の物との間に存在するスペースとして捉えられています。
またフィクションの世界では、物理学でいうところの「時空」という概念に過剰にロマンを抱き、タイムマシンのような装置を夢見たりしていますし、そのような発想はメディアを通じて繰り返し情報流通されることから、知らず知らずのうちにすっかり世間に認知され定着しています。

カタカムナではどうでしょう?
文献には「トコロチマタノトキオカシ」「トキトコロトコタチ」などと記されています。
そもそも原日本人が捉えた「トキ」「トコロ」とは一体何なのでしょう?

「ト」という言葉は「何々と何々」というように、ある物とある物を足す、統合する、繋ぐ、附随する… そんな意味合いであることは周知の通りですね。
では「キ」とは何かと言いますと…、文献では、物質性を形成する渦巻き円盤状の場における「カム」からのエネルギー「カ」の差、つまりエネルギー傾斜による様々な事象を「サ」と呼んでいます。その「サ」に対して、渦巻き円盤状の場の求心力となっている見えざる軸にも同様にエネルギー差があり、その差について「キ」と呼んで、場のエネルギー傾斜、及びそれに附随する事象「サ」と区分しています。

場を物質性として捕らえれば、それに対する軸はエネルギー性として捉えることもできます。
例えば、銀河や台風には物質的に視認できる渦巻き状の場があり、その中心には求心力としての見えざるエネルギーがあります。その中心軸のエネルギーの有り様(差)を「キ」と考えれば、おおよそ正解なのではないでしょうか。
またそういった形状が植物の樹木にも似ていることから、それを「樹、木、キ」と名付けたのでしょう。



ですから、「トキ」と言いますと、某かのものと前述のエネルギー傾斜「キ」と足した状態であるのです。
また「トキ」の「キ」の傾斜とは「エ」方向である「ナミ」の有り様ですから、 波動性に関与した言葉でもあります。

「トコロ」の「コロ」はどうでしょう?
「コ」は数詞としては「9」の性質があります。数学に詳しい方ならば、循環少数などにしばしば「9」のが表れることをご存知でしょう。(循環小数のルーレット)




文献には単位段階において「ヤ、8」というポジションはバーチャルなものである…という考え方があります。それは「ナナヨツギ」という表現にもありますように、単位段階は進行する際に「ナ、7」を超えますと、次の「ヒ、1」に直結してしまうというのです。ですから、飽和安定をである「ヤ」を目指すと、それが完結した途端にそれは次の段階、単位に変わってしまっているのです。
文献では、この「ヤ→ヒ」の性質を「コ」であると記しています。
つまりそれは一巡を完結し、更に持続的に循環し発振状態にあることです。
音響現象で、マイク、スピーカーの間に発生するハウリング、フィードバックと呼ばれる状態も、この「コ」であると言えます。(※コダマなどの日本語にその名残りがあります。)




「ロ」は「イヤシロ」でもご説明しましたとおり「カム」側も含めた「連なり」を示した言葉です。
ですから、「コロ」とは循環発振し連なっている状態のことをいうのです。
この「コロ」を、某かのものと足した状態が「トコロ」ということになります。
「転がる」などの言葉は、現代語ではその個々の物体が回転し転がる…という意味になりますが、文献では、その周辺環境との関係性も含めて「コロ」しているということになります。

またこれらのことから「トキ」にはエネルギー性、波動性に関与している性質が伺え、「トコロ」には物質性、粒子性に関与している性質が伺えます。



ところで、現代日本語で「時間空間」という場合、「間」という言葉が使われていますが、カタカムナ文献においても「マ」という言葉は非常に重要です。
「マ」は「カム」に対して現象方向への 構成要素の最小単位である「アマ」を元に形成された「間」です。
(※詳しくは「アマ」の回で説明しています。)

また日本語には 「間に合う」「間が悪い」「間違い」「間合い」「まとも」「間抜け」「真面目」「魔がさした」「守る」「纏まる」…など、「マ」がついた言葉が数多くあります。
例えば 「間が悪い」と言った場合、その多くは「タイミングが悪い」という意味ですから時間に関する言葉であると言えます。反対に「間合いを取る」と言った場合、それは「空間的なスペースを空ける」という意味ですから、それは空間に関する言葉と言えます。また「間に合わせる」という意味合いには「定刻通り」という時間に関する意味合い以外にも、リクエストにジャストフィットする…という意味合いもあります。こちらはどちらかと言えば物質的な意味や、行動的な意味が大きいようです。
このように 日本語には「マ」という言葉に時間と空間、両方の意味があるのです。
「トコロ」という主に場所を表すと考えられている言葉にも同じようなことが言えます。
「ところで」と言えば、それは場所ではなく、タイミングを計る時間に関与した言葉になります。
そういった特有の表現を、私達日本人は、ほとんど意味を取り違えることなく、その場その場できちんと把握して対応しているのです。

一方、物理学の分野においても「時間空間の同質性」という考え方があります。
それをカタカムナ文献では「トキトコロトコタチ 」という表現で記しています。 古来より日本人には、時間と空間を別々に捉えず、それらは共に転がるもの…という感覚が根付いているようですね。

(※アインシュタインの特殊相対性理論で提唱された理論です。その後の一般相対性理論において、特異点と呼ばれる問題が発生しましたが、ホーキングの「宇宙の始まりに虚数時間が流れていた…」という説を取り入れれば、やはり時間と空間はその発生時には同じものであったという考え方で落着します。)

アインシュタインの相対性理論では、更に「多時間性」という考え方にも触れています。
観測対象毎に異なる時間があるということです。例えば… 貴方という人間と私という人間の時間も違えば、貴方と貴方が手にしている目の前のコップの時間も違う…ということです。
それぞれの物に対しての生滅時間があるように、おおよそのタイミングは似ていても、同じ人間と人間でもその生滅(一生)には時間差がある…といえば分かりやすいでしょうか?
そういった意味では、通常私達が考えている時間である「時計時間」は、様々な異なる時間を便宜的に計る物差しのようなものに過ぎないと言えるでしょう。太陽と地球という関係性の時間を共通の単位として日々の暮らしをすることに納得しているだけなのです。

このような考え方をカタカムナ文献では「アマ」や「シマ」という言葉で説明しています。
「アマ」とは、「あらゆる間」「あまねき間」という意味です。時間空間には様々な「マ」があり、それらに共通する単位として「アマ」というものがあるということなのです。
また「アマ」を部品として形成された特定の「マ」は、「示されたマ」として「シマ」という言葉で表現されています。つまり多時間性は、多空間性であり、それらは様々な「シマ」である…というのです。
そしてそれら様々な「シマ」全てを「アマ」と言い、更にその概念には、そのそれぞれの「シマ」の部品である「マ」も「アマ」とすることも含まれているのです。

この発想は現代物理学の「場の量子論」で語られる考え方と非常に良く似ています。
この「場の量子論」について少し説明しますと…
古典論に分類される説ですが、アインシュタインは 「光はエネルギーの塊の集団」であるという「光量子仮説」で「光は粒子のようなものである」という説を唱えました。それはマックスウェルによる「光は電磁場により伝わる波である」とするそれまでの説と対立する立場となりました。
この二つの説は一見まるで別々の説のようですが、その後の実験で、光は粒子の性質を示す場合と波の性質を示す場合があることが確かめられたのです。(※この性質は電子においても同様です。)
この奇妙な性質を説明するのに適した新しい学説が「量子力学」です。
量子力学を電磁場に摘要すると、波の性質を示している光、つまり電磁波を伝えるはずの電磁場から、量子状態の光を表すことができることが分かったのです。この光の量子状態は「光子」と呼ばれています。

この考え方を理解するのによく用いられるのが電光掲示板の例えです。
電光掲示板の文字や絵が変化して見えるのは、点灯している電球が実際に移動しているわけではなく、点灯している電球が消え、隣の電球が点灯することによって、動いたように見えるということですね。
電光掲示板の全電球を「場」とした場合、その中でエネルギーが集中した場所(電気が送られた場所)が移り変わっていくことによって、動いているように観測されているのです。
素粒子にも同じことが言えます。実際に固い粒が移動しているのではなく、それぞれの「場」においてエネルギーの集中した箇所が移り変わっているだけなのです。
これが電子、光子に波と粒子の性質が共存している理由だとされているのです。




「場の量子化」という考え方は 、現在では全ての素粒子(未解明の粒子は除く)の「場」に拡張されています。電子の場は「電子場」、クォークの場は「クォーク場」、ヒッグスの場は「ヒッグス場」です。
これもカタカムナでは「シマ」という考え方を用いて、非常にシンプルに説明しています。
海に浮かぶ島(シマ)の断面を連想してみてください。 海面というスレッショルドレベル(しきい値)の界面を超えるとそれは視界に示されて(観測されて)、「シマ」となります。




海というスレッショルドレベル(しきい値)だけでは単一の「シマ」ですが、実際には様々なスレッショルドレベル(しきい値)があり、それによって様々な「シマ」が存在しています。現代の科学でいうところの「場」ですね。それらは重なって存在しているのです。(シマカサネオホタマルワケ…)
つまり重畳状態にあるのですから、単位を遡れば全てを統一理論で語ることのできる原初のエネルギーに辿り着ける…というわけです。この大統一を科学は目指しているのですが、カタカムナでは、その単位を逐一辿ることは、無制限、無限であるから不毛であると考えて、同じパターンの繰り返しならば「型、カタ」を示せば良い…としているのです。「1を知って10を知る」という抽象性を最も重要視したのです。
それゆえに「アマ」という方向性と「シマ」という方向性で事足りると考えたのでしょう。




ただし雑なわけではありませんから、電気性の性質を示す単位には「イ」と名付け、クォーク性を示す単位には「ミ」と名付けたように、過不足なくその時々の性質を表すことには事欠かないように示されています。
現代人の悪い癖で、電気' 電気'' 電気''' 電気''''というように延々とコレクションして分類するということがないだけなのです。
( 整数の間の小数、例えば1と2の間にある小数全てに名前がつけられるでしようか? これは無限に属することですから、コレクション作業は不毛です。そのことに気付けば、「カタ」がいかに効率の良いものであるかということをご理解頂けるのではないでしょうか。)

私見ですが… 現代的コレクション方式か、カタカムナの「カタ」方式か、どちらを知性的と取るかは人それぞれの判断によるでしょう。しかしながら行き詰まった現代社会を見るにつけ、根本的に異なる発想からスタートしているにも関らず、現代科学にも匹敵する理論体系をもつ文献を、よく吟味もせずにただただ捨ててしまうことは、個人的には非常にもったいないことだと感じているのです。





※干渉縞など、様々な自然現象に表れる「シマ」の例
詳しくは「シマ」の回でご説明しています。




「トキトコロ」相対性理論、量子論、超ひも理論などとの対比 その2


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