↑ カムナガラノミチウタの一例



この先はカタカムナ文献の内容そのものについて吟味していきましょう。

私達の現代分明は、多くの分野において数学に頼っています。もちろんカタカムナ文献も「カツ」という数学的概念を持っていますが、カタカムナの一番の特徴は、「カタ」というパターンとしての抽象的な認識です。しかもその表層の「カタ、型」のみならず、カタカムナ文献で反転領域として捉えている「カム」と呼ばれる方向も含めて抽象し、認識しているのです。

文化的生活を営む現代人とされている私達は、何事も分析しなければ認めることができません。客観的証拠というものが必要だと考えているのです。それがこの社会の特徴であり、科学の在り方の特徴でもあります。それはある意味「カタ」あるいは「カタカムナ」とは逆の指向性と言えます。

例えば、ある食品があるとします。その場合、成分分析をしてそれを認識しようとします。タンパク質であるとか塩分であるとか、そういった分析がまず始まります。そしてその次にはそれぞれの組成、つまり化学的な分子構造を知ろうとします。そうするとその構造を形成している元素が特定できます。そうなりますと、いよいよ私達はその食品を認識したと認めることができるのです。
その考え方でいきますと、その食品がなぜ美味しいのかという疑問に対しては、うま味成分のアミノ酸…という話になります。しかし、ではなぜそのアミノ酸を美味しく感じるのか…ということになりますと、途端にその答えは無くなってしまいます。しかしそれでも私達はその食品を認識したと考えているのです。

社会的にも…例えば裁判のような話においても同様のことが言えます。
最近何かと世間を騒がせているストーカー事件において、どのようなストーカー被害にあったのかということを被害者がメモしておいたとします。このメモに「いつ」「どこで」「誰が」というような内容が記載されていれば証拠能力が高く、そういった内容に記載漏があれば、それは証拠能力が無いか、あるいは低いとみなされます。実際にストーカー被害に遭っていることが事実であるならば、それはその記載漏れとは関係なく犯罪のはずですが、実際には、その記載漏れの証拠だけでは「それは犯罪ではない」と、みなされるような社会的共通認識があるのです。つまり真実はどうでもよく、その社会における必要用件とされる条件を満たし、要領良く生きることが最重要視されているのです。仮に担当した警察官がこのパターンは絶対にストーカーだと認識していたとしても、そういった認識では決して法律は動くことはないのです。そしてその法治下にある人間も決して被害者を救うことはないのです。被害者が死亡してから「ああ、あの人はストーカーだったのか…」と認識して、結着としてしまいます。

「分析を指向しながら、分析できない部分は切り捨てて無いものとする…」
これが私達現代を生きる人々の思考の癖、傾向なのです。
「分析できない部分は分からない…」と、認めないところが興味深い特徴ですね。


しかし、そういった癖、傾向があるにも関らず、別の側面「カタ」を認めざるを得ないケースもあるのです。
例えば「色、イロ」です。まず分光、スペクトラムを連想してみてください。



私達は色について「赤」であるとか、「青」であるとか、その色合いを見て判断し、その名前を呼びます。これについて、その色彩の分布状況について詳細に数値を問題にするのは、印刷の際の色指定などの特殊な場合に限ります。「赤い花が咲いた」という会話において、「それは赤ではない。イエローが数パーセント入っているから赤〜黄色においての赤89.75パーセントだと言わなければならない…」と言う人物がいたら、その人はかなり歪んだ人格の持ち主であると思われてしまうでしょう。
私達は衰えたとはいえども、多少の変動についは抽象して、それを何であるかを認識する能力を有しているのです。もしその能力が無ければ、日々体重や体積、また形状が変動している人間についても判別できません。夫婦であっても、朝、夫を見たら昨晩と比べて体重の変動が500g生じていたため、それは夫とは認められない…ということになってしまいます。
不思議なことに、こういった屁理屈を言う人が頭の良い人と言われるケースも時にはあるのですが、一般的にはそれは幼稚なことと判断されています。子供が言い争いの際に相手をやり込めるために「何時何分何秒?」と言う幼稚さと似ているからです。
私達は分析だけでは生きていけないのです。 抽象してパターン「カタ」として判断する能力が必要なのです。

(※カタカムナでは「イロ」を、様々な電磁波(イ)の連なり(ロ)と捉えていますから、単に可視光線の範囲の色彩についての名称とは考えていません。「いろいろ」という語感を連想されると理解し易いかもしれませんね。またカタカムナでは「イ」に「5」の意味があり、それはφファイに通じるランダムネスがあると記されています。それもまた「いろいろ」に通じます。)



この「カタ」について、私が現代科学について疑問を持ったある事例を紹介しましょう。
それはエーテルと呼ばれた仮想粒子の実験です。

19世紀は光は波動であるという説が優勢でした。そこで問題となったのが、光が波動ならば、その伝達物質が必要ではないかということです。その光の伝達物質として仮定された粒子がエーテルです。
エーテルをご存知ない方のために少し説明しましょう。

音波を伝達しているのは空気です。その空気には流れがあり、その流れは「風」ですね。ですから、音波には決まった速度がありますが、その速度は風の影響を受けます。

音波の本来の速度を「→→→→→」とするとします。
風の速度を「→→」または「←←」としますと、

追い風の場合は次の速度になります。
→→→→→→→
向い風の場合は次の速度になります。
→→→←←

見かけ上の速度は、追い風の場合は早くなり、向い風の場合は遅くなると考えられます。

光を伝える媒質「エーテル」というものがあるのならば、この音波の場合の空気の風のように「エーテルの風」というものがあるはずで、光はその影響を受けて速度を変化させるのではないか…と、当時の科学者達は考えたのです。そのために考案された装置が現在「干渉計(下図)」と呼ばれているものです。アルバート・マイケルソンが考案した装置です。


※上図は現在の概念図です。実際にマイケルソン が使用したものは、四方に鏡を複数設置し、
調整器と望遠鏡も設置されていて、それにより干渉縞のずれを観測しています。



光源から照射した光は中央に斜めに配置されたハーフミラーを通して、経路を2つに分けられます。ハーフミラーは光を通しながらも反射するからです。

・光源からの光をハーフミラーで反射した経路は、鏡2に達して反射し再びハーフミラーを通して、光検出器に到達します。これが経路Aです。

・光源からの光をハーフミラーで通した経路は、鏡1に達して反射し再びハーフミラー反射されて、光検出器に到達します。これが経路Bです。

例えば上図のようにエーテルの風が吹いていると仮定すれば、

・ 経路Aは最初のハーフミラー〜鏡2までは向い風になり、鏡2〜2度目のハーフミラーまでは追い風となります。そのそれぞれ距離は同じですから、相殺されて光の本来の速度となります。

・経路Bは光源〜最初のハーフミラー〜鏡1、また鏡1〜2度目のハーフミラーまでは、ずっとエーテルの横風にさらされていることになります。

2度目のハーフミラー以降はどちらも追い風ですから、経路の条件の違いに速度は影響されません。
もしエーテルの横風が影響するならば、この場合、経路Bの方が遅く到達することになります。

しかし最初のマイケルソンの実験から、その後、様々な科学者達の追試に至るまで、光速は常に一定という観測結果を示したのです。この実験により「エーテルの風は吹かない」ということが実証されました。
これは「マイケルソン・モーリーの実験」の名前で知られた、後に光速度を一定と決定することに貢献した有名な実験です。この実験結果からアインシュタインは「エーテルは存在しない」として光に関する学説(光量子仮説)を発表したのです。

この実験の内容そのものに間違いはないと私も思います。 しかし私がこの実験の話を初めて耳にした時、ある疑問が心に沸き上がったのです。
それは「エーテルの風が吹かない」ことと、「エーテルが存在しない」ということは違うのではないか?ということなのです。なぜ媒質には常に風を伴わねばならないのか?…それが疑問だったのです。
(実は別の箇所にも疑問があったのですが、それはまた別の機会に…)

実際のところ、量子力学の科学者達やニコラ・テスラはエーテルの存在を肯定していました。しかも当時考えられていたエーテル像とは別のエーテルの在り方にも言及しているのです。このことを考えますと、私の疑問と良く似た疑問を持っていたのではないかと思われるのです。つまり現在広く通用している「場の量子論」に通じるエーテル像を当初から連想していたのではないか…と推測されるということです。
(※場の量子論についてはこちらもご参照ください。)
(※アインシュタインも後にエーテルに関する発言をしています。真空中においても空間には重力場や電磁場が存在することから、物質名ではなく、こうした空間をエーテルと呼ぶことにしてはどうか?と言っています。)

アインシュタインによる一般相対性理論の重力波の存在は、相対性理論の検証の際に間接的に観測されたましたが、現在、その重力波を直接観測するために、どんな機器を使用しているのかと言えば、非常に大規模な超高感度マイケルソン干渉計をファブリー・ペロー干渉計と組み合わせて使用しているのです。結局同じことをして、エーテルに代わる何かを探しているのです。空間を満たす、あるいは空間に敷き詰められた、何かしらの存在が必要であることは間違いないと言えるでしょう。この問題は、それをどのような存在と捉えて、どのような名称を付けるのか?ということに過ぎないのではないでしょうか。

こう私が説明しますと、前述の狡猾でポジショニングを第一と考える人達はおそらくこう反論するでしょう…
「エーテルと場は違う学説である」と…そして、その差異について詳細に説明するでしょう。しかし、エーテルを想定した人の感覚と、場を想定した人の感覚や、それらを必要とした背景の相似性については、決して触れることはないのです。
私には、共通頃を抽出し抽象化して本質に迫る方が、毎回毎回、端々の差異で全てを否定しまうより、遥かに効率が良いのではないかと思えてならないのです。こういった全否定の背景に付いて回るのは必ず、権威であるとか、威厳であるとか、悪い意味でのプライドのようなものです。自然を素直に観察する姿勢や、科学や社会に対する貢献とはまるで無関係な単なる個人の意地の張り合いです。
私が現代科学について強い違和感を持つのはその部分の「不自然さ」に尽きると言えるでしょう。

カタカムナ文献では、冒頭このように宣言しています。
「カタカムナヒヒキマノスベシ」
つまり「カタ、型」により「マ、時間空間」の方法論や循環方法を抽象化(ヒヒキ、抽、響)して示す…と。
物事の実相を掴もうとするのに、端々の差異に最も注視するのか、一見違う事象に見える物事の共通項を探り出すことを重要視するのか…その違いが現代社会とカタカムナとの決定的な違いなのです。

(もちろん現代人にもカタカムナ的な人は存在します。科学者にも前述の負け組のように、カタカムナ的な人達が存在します。現代社会とカタカムナの違いについて、ここでもやはり前述の「方向性」という観点から統計的に述べているに過ぎません。ですから、このような注釈はこれ以降省略させてください。賢明な方々には全く不要な言い訳ですね。 この注釈を毎回必要とされる方は、恐れ入りますが、ここで退場して頂いた方がよろしいかと思います。抽象能力を主体とするカタカムナを吟味するにあたって、何時何分何秒…という不毛な水掛け論には全く意味がないのですから。)

結局のところ「エーテルか?場か?」ではなく、マイケルソン干渉計に反応する何か…として、その「カタ」を求めているのではないでしょうか? そう捉えた方が理知的で自然です。

(このマイケルソン干渉計は実は非常にカタカムナ的な機器です。長年カタカムナを勉強されてきた方々の中には、上図をご覧頂いた時に何かしら感じ取った方もいらっしゃるのではないでしょうか?)



カタカムナ文献 その信憑性についての考察 5 へ続く

 

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