↑ カタカムナ文献 第48首



「あなたに友達はいますか」そう聞かれた場合、どのように答えるでしょう?
その質問に更に次のような条件を付け加えた場合はどうでしょう?
「女の子が結婚式の披露宴の席で、歌を歌ってもらうための "要員" ではだめです。それから、親の葬式の時の駐車場誘導のための "要員" でもだめです。それらに類似するものは友達ではありません。」
もちろん披露宴で歌を歌っても、駐車場誘導しても、友達であることも同時に成り立っている事例はあります。それらの行動は結果論であって、問題としているのは、「そもそも、その人達が何のために必要だったのか?」という点についてです。
このような例の他にも、現代社会では「なるべく議論の外に置いておきたいこと」が沢山存在しています。カタカムナは「ありのままの自然」ですから、あえてその部分にもスポットを当てて、「心」の本質を更に考察してみましょう…。




ある人気の男性アイドルグループがあるとします。 このサイトが熱狂的なファンの「荒らし」に遭うのも困りますので、特定のグループについての話では無いことを強調しておきます。
「このグループで一番好きなのは誰?」…こんな質問があった場合、アイドルグループですから、見た目の格好良さが一番影響することは、皆さんご存知の通りです。ところが「問題が起こった時に、相談に乗ってくれそうなのは誰?」という質問だったらどうでしょう? 今度は別の統計結果が出そうですね。
実際、芸能人には「好感度」と呼ばれる指標が大事な要素となっています。ひと昔前ならば、現在のバラエティー番組のようなフリートークを必要とされる番組も少なかったですから、メディア露出時の質議応答などは、定型パターンで練習しておけば、その「二枚目ぶり」や「男前さ」のイメージは維持できました。しかし現代のメディア事情はそれでは成り立ちません。そうなりますと、そのアイドル活動が継続されるほどに、人気者の有り様に変化が見られるようになってきます。その人柄が画面に滲みでてしまうからです。コマーシャル出演依頼などは、特に「好感度」に左右されますので、非常に分かりやすい結果を見ることができます。(この事例は、匿名的な統計が、現代においても、なかなか正しい判断をすることを示す一例と言えます。)

そしてここで思い起こして頂きたいのは、「 一番好きな人」と「相談を持ちかける人」が一致していたかどうか…ということです。もしこの結果が違っていた場合、例えば、一番好きと本人が認識している人と結婚すれば、大事なことを相談できない人と結婚したことになります。
プライオリティーの問題として、「性格よりも見た目」という話も多いですが、それも否定はしません。形状というものもペア性にとって重要な要素だからです。ところが、「見た目さえ良ければ後はどうでもよい…」という意見ということならば、カタカムナはそれを否定するでしょう。なぜなら、それは「ハシ」を指向しているからです。カタカムナの示す人間のあるべき姿は、極端な指向性を否定しているのです。この場合ならば、どちらも両立している人、あるいは、その問題としている部分をカバーできる人が見つかるまで、ペアを成立させないことを勧めるでしょう。
一番好きと認識している人が、大事なことを相談できない人である場合は、当然、時間経過とともに「一番好きな人ではなくなる」ことが予想されます。「好き」という感情は「心」の問題であると多くの人はそう考えています。「心」は暖かく優しい… そういった肯定的なイメージが支配的ですが、この例を見てみますと、「現代的な心」とは、なかなか「即物的」で「一過性」な側面もあるようです。
一般的に「見た目が好みの人物」を「優しくて良い人」と判断しているケースが非常に多いことは、皆さんも良くご存知ですね…。

恋愛というフィルターを除いて、このケースを職場などの集団に置き換えてみても、同様のことが言えるのではないでしょうか? 「一見イケている人」に花を持たせるように、その集団の中でのムードが形成されている場合、実際に様々な問題を解決する能力を持つ人物は、困った時だけの厄介事相談役であって、普段は窓際などに追いやられている。そして、見事に問題を解決しても成果は報われることはなく、「一見イケている人」がその栄誉が持っていく… そんな状況はどこにでもあるのではないでしょうか? そしてそのような状況は周知の事実であるのにも関らず、周囲の心ある善良なはずの一般的な人々も、「長いものには巻かれろ」式に、能力のある人は無いことに、能力の無い人はあることに… 能力があるのに評価されないのは「才覚」「人望」がないからだ… そんな風に事実を別のフィクションに置き換えてしまいます。
「才覚」がないのは、明らかに「一見イケている人」なのですが、この場合の才覚とは、「他人を陥れること」を言うのでしょうか? 「人望」も同じです。なぜ人望が無い人に、困った時の頼みごとをするのでしょう? 「一見イケている人」には「人望」があるのでしょうか? それとも「間接的な脅し」が得意なのでしょうか? 
現代人は、そういったことをハッキリと認識することもなく、漠然と「才覚」「人望」などと口にして、曖昧に済ませているのですが、その反面、それらの言葉の持つ意味やイメージには振り回されている状況なのです。
それも前述の恋愛のパターンに照らせば、「現代的な心」の作用です。私には「現代的な心」は酷くちゃっかりしたもののように思えるのですが…いかがでしょう?

ジョセフソン効果で知られる物理学者、ブライアン・ジョセフソンや、このサイトの「トキトコロ 量子力学、超ひも理論などとの対比 その2」でも紹介しています数学者のロジャー・ペンローズは、「心」を素粒子の働きによるものだという推測を立てています。カタカムナにおいても、それを「ココロ」と呼んでいます。日本人ならば、その「ココロ」という語感から「小さな粒子」を連想することができるでしょう。
素粒子などというものを持ち出しますと、心、直感などの重要性を主張する人達は、「心はそんな冷たいものではない。そんな難しい物理学は心に必要ない。それで心の何がわかる!」と憤慨される方も多いです。ところが、前述しましたように、「現代的な心」には、無邪気な一般的な人々の心情の中に、そういった人達の主張(暖かい心)とは真逆の、酷く冷たい側面が存在しているように思えます。
私には、少なくとも「素粒子」という存在自体に、冷たいとか暖かいとか、そういった感情が読み取れる要素は無いように思えます。ジョセフソンやペンローズもおそらく同じ思いでしょう。そこにはただ理数系を指向する人々に冷淡な人が多い…という、ステレオタイプな一般的イメージからくる、遠因的な誤解があるだけなのではないでしょうか?

このような問題は「抽象」と混同されがちな「単純さ(鈍さ)」の問題であると私は考えています。



カタカムナの図象では、「ココロ」は、現在の単位段階にとって背景となる「カム」の領域と循環し連なることを意味しています。つまり、その循環のために回転する様子が「粒子のようなふるまい」をしているのです。また、「コ」「コ」と記述するように、現在の単位段階にとって、の背景を2段階(あるいは2段階以上)に設定している点は、特に注目に値します。
先に示しました赤いマス青いマスの画像にあるような、1つの単位にとって、流動的に機能するそれより小さい単位があるとしますと、その小さい単位にも、また流動的に機能する更に小さい単位があるわけです。小さいという方向性は、より広域な環境と言うこともできますが、「ココロ」は少なくとも、その2段階以上の環境にアプローチしなくてはなりません。
カタカムナの「ココロ」には、「私とあなた」というような相対性ではなく、「私とあなた」も含めた更なる広域への相対的な行き来が不可欠なのです。
近視眼的な現代人にとっては、「独り占め」が主流ですから、「私とあなた」双方の利益というだけでも、物凄い美徳だと思われています。ところがカタカムナによれば、それは「ココロ」ある行為ではなく、単なる利害関係だと看做されてしまいます。更なる広域環境との関係性において利益にならなければ、「ココロ」無い行動ということになってしまうのです。

「アマカガミ ヤホアメヨロヅ アマイノチ マトマリイノチ ココロワケ アワセカサナル マノココロ」
「カムナガラ タカマウヅマキ ユリイゴキ イブキウツリミ ココロワケ カムナカネミチ アマアマナ」
カタカムナ文献異本には、このようなウタがあります。異本は原本よりも後代に記されたようで、若干、現代人にも分かりやすいニュアンスがありますので、理解の良い手助けになります。
この章では「ココロ」の概要を説明していますので、詳細解説は省きますが(詳しくは勉強会へご参加ください)、これらのウタに示されている「ココロ」の解説には、先程お話ししました「ココロ」の粒子性の他に、「ココロ」には広域環境(アマカム)から分配された性質を維持しているという説明があります。つまり個々の様々な物には、いろいろな性質や形状などのバリエーションがありますが、それら分化した機能は、広域環境の「ココロ」が分配されているというのです。
ここにも私達現代人の大きな盲点があります。「ココロ」の在り処について、その根本的な方向性を間違えているのです。
現代人は何でも主観的に考えがちです。 「ココロ」の座は自分自身の中だけにあると考えるのが一般的な考え方ですが、カタカムナにおいては、まず広域環境(微細な粒子が充填された様子を連想してください。)を構成する素粒子の性質があり、その性質が人間やあらゆる物に付与されていると考えているのです。そのため「ココロ」のやりとりは、より広域な環境とのやりとりが基本であり、人間個人と個人のやりとりは、その中のほんの一部でしかないと捉えているのです。
これを聞くとサイコパス傾向の強い人は、次のように考えるでしょう… 「そうか! 人間関係などどうでもよいのだ。自分はもっともっと偉大な存在とコンタクトするのだ!」…と。しかしながら、それは決して「マノココロ」などではありません。その発想はかえって自然本来の「ココロ」から遠ざかると言えるでしょう。
カタカムナ物理は抽象ですから、人間が環境の役割を果たさないなどとは、どこにも示されていません。むしろ人間は、更なる広域環境の性質を受け継いで、自分自身の存在が、そのような自然な環境と成れるように努めなければならないのです。もちろんそれは現代人にとっての努力であって、他の生物は皆、本能に従い、自然に広域環境を真似て、自身も良い環境となって存在しています。それゆえに、私達現代人は、野生の生物の姿を見ては心を和ませているのです。
「ワ」という全体から、機能を「配分、ワケ」されていることを忘れていけないのです。
私達現代人は「本能による行動」と「欲望による盲動」を取り違えています。 他の生物達は、現代を生きる私達人間を見て、果たして心を和ませてくれるでしょうか?

それではなぜ現代人の「ココロ」は正常に機能しないのでしょうか?
その点についてカタカムナには、「イリマジリ アワセカサナル マノココロ ユガミヒヅマリ…」と示されています。また別のウタでは、「ウヅメカサナル イガミマリ マトマリイノチ ココロワケ シゲアヤミダレ マヨヒワケ」と示されています。
ここでは詳細解説を省略しますが、この章のテーマと関係する、これらに共通する部分の意味は、「複雑に構造されると、その多機能性から歪みや乱れが発生し易い」ということです。
私達は、これと同じことを電化製品などで経験したことがあるはずです。つまり、複雑な構造、機能を持ったものは壊れやすく、シンプルな構造、機能のものは壊れにくいということです。
私達現代人は、ここでも大きな判断ミスを犯しています。現代人は、この電化製品のバクのような状態、それを「心」と勘違いしているのです。この複雑な構造化による問題は、前章の分子構造などによる毒性と全く同じ物理です。この勘違いが、欲望を本能と誤認させていると思われるのです。
現代人は、非常に複雑な構造を持つ多機能化した脳を「信仰」している状態ですが、 この脳の構造に毒性が発生する可能性のあることを理解していません。そんな現代人にとって、このカタカムナの示しは、非常に重要な示唆を与えているように思えてなりません。

複雑な構造を持つものは、バグを発生した場合、愚かで単純な判断をしがちであり、シンプルな構造を持つものは、より広域な環境と共振し易いことから、様々な事象について汎用的に対処できる判断をするのです。




ここからは、これまでお話してきましたカタカムナの「ヒヒキ」などに基づく「心、勘、直感、生物的本能」の性質を、具体的な事例に照らしてご紹介していきましょう。これをご覧の方々が、より深く感じて、良い抽象を試みることによって、他の事象に対しても汎用されることを期待しています。


◆「ココロ」は人体の構成要素ですが、それは外部環境から取り入れた素粒子であり、また人体からも外部環境へ放出される素粒子でもあります。
この流動性、疎通性を感じられない人は、体裁さえあれば全てがまかり通ると勘違いします。
例えば職場で、相手のことを何も考えてもない、いないばかりか、あわよくば取って喰ってしまおうと思っている上司が、その相手に「いつも君のことを目にかけているよ。これからもがんばってくれ!」と、声をかけても、それはその上司と同じレベルの鈍感さを持つ人でなければ、簡単に真意は見抜かれてしまいます。なぜなら、「ココロ」は伝わるからです。
これはイメージなどではなく、実際に伝わるのです。神秘主義思想の人達は、これを素粒子の仕業とは思いたくないという思いがあるようです。なんとかその「心の力」を自分達だけの特権にしておきたいからですが、本当のところは、「ココロ」の疎通性の働きでしかないのです。
粒子を相手に送り、相手がそれを受け取ると、今度はその相手の内部で「カタ」を再構成して、送信者の意志を読み取っているのです。パソコンのデータ転送と同じです。しかもパソコンとは違い、転送するしないを自分自身で決定できない自動全送信ですから、この情報の転送は止めようがありません。
近年、クォンタムジェネレータを利用した実験や、親しい間柄の二人の人物間における転送実験などで、次々とそれは実証され始めています。
神秘主義思想の人には、こういった実験を知ると、今度はその素粒子にフィクションの神のイメージを見い出してしまい、それをまた信仰してしまうという弱点があります。直感が売りであるはずなのに、ありのままに感じる能力が酷く衰えているのです。そして中には、これを排他的に「特別な物」とし、新たな「商材」として利用しようと考える人も現れてくるのです。

素粒子である「ココロ」の伝播を感じ取れない人は、自分の感情が他人に読み取られていないと過信し、調子に乗る傾向があり、「ココロ」の伝播を感じ取れない神秘主義思想の人は、それを神秘な力と看做してしまう「鈍さ」があります。「ココロ」の伝播は、誰にでも可能な日常的な事象であり、「ココロ」は、生物、無生物を問わず、絶えず疎通し続けているのです。


◆現代の職場においての、賢い立ち振る舞いとは、真面目にちゃんと仕事をやることではないことは、周知の事実ですね。(もちろん体裁としては、きちんと仕事をすることが大事と…と発言する世の中です。)
適当に仕事をしているふりをして、成果が上がらなければ、攻撃性の弱い(ヒヒキやアワの能力の高い)人物に責任を押し付け、他人が何か仕事で成果を上げたならば、うまくそれを横取りしたり、元々一緒にやっていたプロジェクトであったかのように振る舞うことが「仕事」だと思っている人が多いでしょう。また、同期など、近い立場の同僚が仕事で良い成果を上げそうになったら、それを妨害し頓挫させることによって、自分の方が格上であるように見せることも、クレバーな方法だと考えている人も多いでしょう。
一般的には、 それを「人間力」「社会力」「ポジショニングの上手さ」など、聞こえの良い言葉や、曖昧な意味の言葉に置き換えて肯定しています。
それでは、立場を変えて、自分がこの会社の経営者だった場合はどうでしょう? もしその状況が常態化していたとしたら、そしてそのムードが会社全体を支配していたとしたら、誰も彼もが「仕事をしないこと、業績の上がらないことを指向している」ことになっているわけです。そして社員達は、その方が「格好良い」という意識も持っているのです。当たり前のことなのですが、それではいずれ会社は潰れ、困った状況になってしまいますね。
もし経営者が同じようなタイプで、同じような手法で伸し上がってきた場合、その問題に気付くことはできません。なぜならば、そのタイプには抽象(ヒヒキ)能力を欠いた「鈍さ」があるからです。
また、それは経営者だけのリスクではありません。格好良く行動している社員達にも、倒産により路頭に迷うリスクがあるのです。それでもそれを続けているのは、近視眼的に目先の楽さを追い求める性質と、結構大きな会社なのだから、誰かがやってくれるだろう…という責任転嫁や、自分が在籍しているうちは潰れないだろう…という根拠に乏しい奇妙な自信があるからです。
不思議なことに、「誰かがやってくれる」と思っている、その誰かに感謝するどころか、馬鹿にして人格さえも否定いるのですから、全くお目出たい状況です。もしそのマジョリティー達が逆の立場だったら、馬鹿にされてまで、他の人のために会社の業務をこなすでしょうか? それはあり得ないはずです。いずれ仕事を「マトモ」にしているマイノリティーの人達は、陥れられ辞めていったり、自ら耐えきれずに辞めていきます。そうしているうちに、誰も仕事をしない奇妙な職場が出来上がっていきます。
これは、昨今の「アウトソーシング」「派遣」などや、「アルバイト、パートと正社員の関係 」などの問題の根幹部分です。要するに正規のレギュラー構成員で「マトモ」に仕事をする人が少なくなってしまったのです。
「 様々なハラスメント」や「虐め」と言われる問題にも、相似した傾向の 原因があると言えます。
そしてもっと恐ろしいのは、これが日本国という集団としても同じ状況にあるということです。
それでもそのマジョリティー達は、心優しい善良な、そして優秀な一般的日本人として見られています。そして真面目に仕事をしている人達は、ダメ人間と看做されているのです。
この図式でいけば、日本人全員が「勝ち組」となるには、他国を植民地化し、奴隷を作り出さなければなりません。「みんな良い人」という体裁を維持するには、かなり無理のある方式だと言わざるをえません。


◆前述の職場のパターンは長期的利益回収という観点に疎く、短期的利益回収ばかりを追った結果と言えます。
小さい単位を細胞、大きな単位を人体とした場合、これに非常に良く似た「カタ」が存在しています。
そうです。癌細胞です。癌は周辺の正常細胞を犯して、自分の仲間に変貌させます。もちろんこれは癌細胞だけの力ではなく、その発生を促す環境(社風)の影響も大きいのです。つまり癌が仲間を増やしたがったとしても、環境がそれを許さない場合は、癌細胞はただその一代限りで消滅です。ところが環境がそれを後押ししますと、癌細胞はみるみる増殖して、全身を蝕み、そしてその個体は死亡(倒産)します。結果として癌細胞も行き場を失い、エネルギー供給も受けられず、個体という全体の死とともに、小さな単位である自らも死ぬのです(失業)。
近因的に楽しいことが、遠因的な自殺行為になるケースが多いことはよく知られていますが、この近因的な楽しいことと、遠因的に楽しいことを、「類別の誤認」してしまいますと、大変危険です。鬱の対処の項でお話ししました「やりたいように好きなように…」というアドバイスが、遠因的な自殺行為とならないよう、広範囲な環境に照らした、正しい抽象に基づく判断が必要です。


◆ 「みんな良い人」と発言する人の問題があります。「みんな良い人ばかり…」と発言する人は、おそらくこのサイトを見ている段階でカッとなり、読み続ければイライラし、かなり頭に来ているはずです。このサイトは、表向き無難で苦情の来ないような作りの商業的サイトの体裁を採用していないからです。
私も「みんな良い人」という指向性は決して否定はしません。もしそれが本当に実現できるならば、とても素晴らしいことです。しかし現実には、このサイトを見てイライラしている人もいるように、「良くない」と認識しているのですから、その発言は「希望」の域を超えてはいないのです。
もちろん「ポジティブに考えて行こう!」という主旨も分からない訳ではありません。そしてもちろん、それは良い方向性であると思います。日常的な会話において、嫌な側面ばかりを話題にしていても楽しくありませんね。実際、私自身もそんな日常生活は送っていません。どちらかと言えば、馬鹿馬鹿しいことばかり話して、笑っている時間の方が圧倒的に多いです。
では、現代人とカタカムナの示す人間の有り様とは、一体何が違うのでしょう? そこには、現代人には「抽象」と誤解され易い「単純さ」「鈍さ」の問題が関係しています。

「みんな良い人ばかりではないけれど、それでも楽しくやって行こう…」これならば、全く問題はありません。現状を正確に把握しているからです。問題なのは「鈍いために、問題のある人の存在に気付いていない」…こちらの方です。
「単純さ」「鈍さ」の問題を持つ人は、よく「難しい理屈は嫌いだ」と発言します。その背景には、自分は「感覚派」「直感派」であるという自負があるのですが、実はその直感そのものが鈍かったとしたらどうでしょう? 
よく「親孝行」や「長幼の序」という一般的道徳観念から、「親の言うことを聞くのが、良い子供だ」という意見があります。ところが昨今の事情では、ドメスティックバイオレンスなどで、簡単に子供を殺してしまう親もいます。もし、そういうケースであることに気付かないような単純で鈍い人が、「みんな良い人」理論で、親から暴力を受けている子供に「親の言うことを聞くのが、良い子供だ!」と言い続けたらどうなるでしょう? 当然、子供は殺されてしまいますね。
カタカムナの示す「個と全体」の相対性(拡張したケースバイケース)の感覚に乏しく、子供の心情に「ヒヒキ、共感」することができないと、暴力に対する怯えからくる「大丈夫です。何でもないです…」という子供の言葉を鵜のみにしてしまい、親のドメスティックバイオレンスを見逃してしまうのです。それどころか、更に間違ったアドバイス(死に追いやるようなアドバイス)さえ与えてしまいます。
この場合、その子供と「ココロ」が全く疎通していないのですが、単純で鈍い人(世間的には、明るく活発で、行動的な人)は、おそらく「心ある自分」「愛ある自分」を自負し、子供と十分にコミュニケーションが取れたと満足しているでしょう。そして最悪の事件の後に、こう言うでしょう…「だって、あの子供は自分で大丈夫、何ともない…と言ったんだから、しょうがない。」 本人としては、実に明るく朗らかで、ストレスも無く、毎日楽しくて良いのでしょうが、その子供は死んだのです。
自己中心性が強いと、自己肯定感が強まります。それは、自己卑下するタイプには必要な方向性ですが、元々、自己中心性の強いタイプの人達は、逆に「内省」や「客観性」の方向性を、後天的に学ぶ必要があります。当人達の楽しい言動(過剰なポジティブさ)は、他者の悲劇を生む可能性が高いからです。

「親の言うことはみんな正しい」「子供はみんな天使だ」「一重まぶたの人は冷たい 二重まぶたの人は明るい」「体格の大きい人は健康的だ 細身の人は不健康だ」「あの人はボランティアの経歴があるから人間性が高い」などなど、ステレオタイプのイメージしか連想しない鈍さ、浅はかさは、そのイメージ外の事実について考えることを否定してしまいます。それは「考える」というより「感じる」という作業なのですが、「直感派」であるはずが、その直感を否定してしまっているのです。
そんな鈍さでは 「子供はみんな天使だ」と「親の言うことはみんな正しい」… この2つのステレオタイプのイメージの矛盾にさえ気付くことはできません。「天使のはずの子供が親を殺す」「正しいはずの親が子供を虐待する」… こんなケースはざらにあります。(就職の際、有利だからボランティア活動をした…などなど)
問題の核心は「雑なステレオタイプ」には無いのです。ここでも「類別の選択」の問題が重くのしかかっています。

また、もし自分が好き放題に振る舞い、周りに酷い迷惑をかけていても、周囲が遠慮していれば、誰も文句は言いません。「単純さ」「鈍さ」の問題のある人は、そんな時にも、「みんな良い人ばかり」と言います。この場合は、確かに周囲は「みんな良い人」ですが、「自分自身が良い人では無いことに気付いていない鈍い人」ということになってしまいます。
自分が好きな食べ物を、他人が「すいません。ちょっと苦手で…」と言っただけで、機嫌が悪くなり、その人を嫌うような「単純で鈍いメンタリティー」の持ち主は、往々にして「感覚派」「直感派」を名乗ります。「苦手…」と言った人は、「こんなもの食べられるか!」と悪意を持って発言したわけではありません。「申し訳ない」という意志を表しているのですから、そこは「怒り、興奮」などが発現するスイッチではないはずなのですが、「単純さ」「鈍さ」の問題のある人は、すぐにスイッチが入ってしまいます。ここにも「類別の選択の能力」「ココロの受信能力」が関係しています。

自分は相手を正確に見ているのか?「ココロ」を受け取っているのか?
単純で雑なステレオタイプを基準に、物事や人を断罪してはいないか?
そういったことを面倒臭がらずに、自問自答できる人こそが本当の「感覚派」「直感派」です。
「勘」の善し悪しは生まれつきではなく、トレーニングによって向上する性質のものなのですから。

先に「構造性はシンプルな方が環境と関連し易い」と説明しましたが、それでは「単純」な方が良いではないか?…と疑問を持たれる方もいらっしゃると思います。ここでも、また「類別の選択」を考えてみていただければ、その疑問は解決すると思います。
この場合の「単純さ」「鈍さ」は、「構造のシンプルさ」ではなく、複雑に構造された脳のバグに従って、逆の発想を排除しているわけですから、これは、「構造のシンプルさ」には相当しません。
しかしながら、「シンプルな方が良い」という漠然とした感覚は、生物なら誰しもどこかに本能として持っているのです。その朧げな感覚が、「類別の選択」の際にバグとなって現れ、間違った選択行為として発揮されたのが、この「単純さ」「鈍さ」のケースなのです。この問題を持つ人達は、生物にとって一番肝心な「感受性」を「雑で良い」と判断しているのです。
「構造性をシンプルに保つこと」は、感受性を高めるための行為であり、「雑」や「鈍さ」とは別の方向性です。

その証拠に、雑で鈍い人は、物事をややこしくさせます。特に他者との関係において、それが顕著に現れるのですから、まさに構造をややこしくさせて、複雑化させているのです。
例えば、職場で、部下は皆理解している仕事を、上司が鈍くて理解できないようなケースがあります。その上司を外すこともできませんし、更に上司はすぐにトンチンカンなことで怒り出します。お客さんに迷惑も掛けられないし、上司を怒らせて出世に響いても困ります。それで、なんとかお客さんと上司を接触させないよう… こんな無意味な仕事や気苦労が増えてしまいます。 シンプルで良いはずの仕事が、かなり複雑化していますね。


◆「みんな良い人」と発言する人とは逆に、クールに斜に構えている人の問題もあります。
共同で物事を進行しなければならない時などに、「みんなで一緒に頑張ろう!」と発言する人がいた場合、「私、そういうの嫌いなんだよね…」というような発言で、けん制する人がいます。なんでも物事を辛辣に見ることが「格好良いこと」というスタンスを徹底しようとするタイプです。 誰かから差し入れを貰えば、「こんなもの頼んだ覚えはない」「フルーツは嫌いなんだよね〜」などなど、反発すればするほどクールであるという考え方です。
現代社会は「事勿れ社会」でもありますので、多少問題発言があっても、面倒なことには関り合いたくないという心情から、 そのような「クールに斜に構えている人」を周囲の人達は許容してしまいます。そうなりますと、「クールに斜に構えている人」は、その手法を自分にとって都合の良い「我欲を通せるもの」として認識してしまいますから、増々図々しさが助長されてしまいます。家庭内で幼い子供が親に甘える手法を、より広域な集団においても、恥じらいもなく、そのまま行っているのです。これも「類別の選択」の問題です。
「中2病」という言葉は、主にオタク傾向の人に使われる言葉ですが、傾向性としては「ヤンキー」の「中2病」も存在しているわけです。この「クールに斜に構えている人」は、そのどちらにも当てはまる「型、カタ」と言えるでしょう。

この傾向の人達は、自分達の言動パターンを、相手にそのまま返されてしまうと、その指向性は破綻してしまうという特徴があります。
前述のような、共同で物事を進行しなければならない時などに、「みんなで一緒に頑張ろう!」に対して、「私、そういうの嫌いなんだよね…」と、けん制したら、「そうか、じゃあ、お前1人で全部やれ!」と切り返されてしまったら、どうなるでしょう? 自分は何もしないうちに他の人達が全てやってくれることを期待して、団体行動が嫌いというスタンスをアピールしたら、逆に自分がやる羽目になってしまったのです。
また、体調が悪く、それが相手に伝わったとします。「大丈夫?」と声を掛けられて、「余計なお世話だ!」と、いつものように答えた場合、「あっそう、じゃあ勝手に死んで」と切り返されたらどうなるでしょう? 
更に、最初のケースも次のケースも、次回に似たような事があった場合には、最初から「お前が1人でやれ!」「体調悪いなら死ね!」と言われたらどうでしょう? これらの相手の態度は「クールに斜に構えている人」が望んだことです…「私、そういうの嫌いなんだよね…」と、そう言われたから、望み通りリクエストに答えたまでですが、「クールに斜に構えている人」は、その態度に怒り出すことは間違いないでしょう。
「自分はそのように言われたり、されたりしたくないが、自分は相手にそういう態度で良い…」という矛盾に気付いていないのに、自分のスタンスを格好の良いものとして勘違いしているのです。また、もし「自分はそのように言われたり、されたりしたくないが、自分は相手にそういう態度で良い…」と本気で思っているとしたら、それは前述のサイコパス傾向が極端に強いと言えます。
しかしながら、実際には「甘えた人」というだけのケースが多いのでしょう。これもカタカムナの示す「個と全体」の相対性(拡張したケースバイケース)の感覚や「ヒヒキ、共感性」の鈍さが原因です。

また前述の「鈍さ」の問題は、この「クールに斜に構えている人」のケースにも見受けられます。
「クールに斜に構えている人」は、なんでも知っているというスタンスですが、実は感受性が鈍く、相手の経験値などを推し量ることができません。そのため「笑っている人」を見れば、「ヘラヘラして、人生の辛いことなど経験したことがない軽薄な人物」と、単純に判断してしまいます。前述の見た目のステレオタイプのイメージそのままに捉えてしまう傾向性が、このタイプにもあるのです。
実際、様々な辛い経験をした人ほど、相手の立場を考慮したり、相手を慮ります。ですから、初対面から相手に不快感を与えるような「睨んだような表情」をしないものです。
「クールに斜に構えている人」は少しだけ経験した辛い出来事が、世界で一番辛い経験ぐらいに考えていますから、相手の痛みを連想することができないのです。その結果、様々な人生経験を積んだ奥深い人物を、人生経験の浅い人物と看做してしまうのです。とても小さな狭い世界の中だけで、甘えて生きている証拠ですね。
このケースは年齢も絶対的な根拠にはなりません。年をとっていても浅はかな人もいれば、子供でも非常に思慮深い人がいます。もちろん年齢通りに奥深い人生経験を持つ人もいれば、幼稚な子供もいます。
カタカムナの時間概念は「多時間性」ですから、一定の時間経過に全てのものが沿っているわけではないのです。それぞれに、それぞれの時間があるのです。その感覚が無ければ、このタイプのように他者の本質を見誤るのです。

「負けず嫌い」という言葉は、肯定的に捉えられるケースが多いです。甘えた人(クールに斜に構えている人)は「自分はいつも勝っている」と思っていますが、周囲が「いちいち面倒臭いから、勝ったことにさせておけ」と大目に見ているケースが多いことは、皆さんご存知の通りですね。言い方を変えれば「勝ち続けているつもりが、周囲から可哀想な人…と思われていた」ということです。現代的な風潮である「ひとり勝ち」は幻想でしかありません。その幻想をなんとか金銭や権力、暴力で代行し、「実際にそうなのだと思いたい」という願望が、この現代社会なのです。

日本でもディベートという外国語が定着しています。ディベートの語彙そのものとは若干の差異はあるものの、「その場凌ぎでも、言い負かせば勝ち」というスタンスが、まかり通る世の中です。時折、カタカムナの解読においても、そのスタイルで行こうとする自称研究者を見かけますが、全く本末転倒と言えるでしょう。カタカムナは体裁ではなく、本質が一番肝心なのですから。


◆ありのままに今のこの人間社会を見てみれば 、この世界は酷く病んだ状態であることは、誰にでも分かります。分からないのであれば、それはかなり「鈍い」か「世間知らず」と言えます。
ところが、その現状をありのままに「世界は病んでいる」と発言すれば、それは歪んだ性格の持ち主であると看做される社会的傾向があります。 「裸の王様」のシニカルな視点は現代でも有効です。しかし、童話では「ありのまま」の視点を持つ子供は、最後には賞賛されますが、現代人は、それすらできないほど精神的に弱いのです。
最初の一言を言い出すのは、たしかにハードルが高いです。しかし、他の誰かが口火を切ったことに乗るのは簡単です。それにも関らず、現代人はそれをしません。なぜなら、現実をありのままに見ることが恐いからです。そして最初に口火を切った人物を「しゃらくさいから潰してしまえ」と陥れ、徹底的に潰します。「世界は病んでいる」と本当のことを言う行為は、善良な心の持ち主であるはずの一般の人々にとっては「悪」なのです。一般的な人々は、このような行動を頻繁に取ります。
反対に、インターネットの書き込み文化では、「誰かを陥れる策略」のような発言に関しては、一斉に応援し、加勢して、一気にそのターゲットを抹殺してしまいます。これも一般的には心優しい人達の行動です。インターネットで匿名の攻撃性を発揮している人達は、自宅においては良い父親というイメージで周囲から見られていたり、優しい彼女というイメージで、交際相手には見られているからです。
このような問題は、「個人と個人」という関係性においての良い人、悪い人…という観点が、現代の主流であることから起こることです。カタカムナの「ココロ」は「個人と全体」という関係性において疎通するものですから、当然、善悪は環境に照らす(アマテラス)ことになります。

例えば、ある女性にとって「とっても優しい彼氏」がいたとします。その彼氏が車に乗れば、常に猛スピードで周囲の車に襲い掛かるように運転し、年寄りが道を歩いていれば、すぐ横を脅すように猛スピードで横切り、自分の運転の上手さを自慢し、日々、愛車を愛でながら暴走を繰り返しているということは、よくあることです。
それでもその女性にとって「とっても優しい彼氏」であることは、変わらないのです。なぜなら、その女性には優しいからです。またその女性だけではなく、その女性の周囲の人達も、その彼氏を良い人物と思う人が多いでしょう。その女性からの良い情報もありますし、女性の知人であれば、彼氏もそれなりに良い人として振る舞うからです。
ところがある日、彼氏とドライブしていたら、いつものように前方の車を脅すつもりが、接近し過ぎて大事故になってしまいました。彼氏は自分の身を守るため、とっさに急ハンドルを切っために、助手席にいたその女性は大怪我をし、前方の車には偶然その女性の身内が同乗してていて、その事故で亡くなってしまいました。それでも、その女性は「とっても優しい彼氏」と言うでしょうか? 彼氏はいつもと変わらぬ行動をしたに過ぎません。その女性はそういう行動をする彼氏が好きだったはずです。
「個人と個人という関係性においてのみの良い人」という観点は、とても危険なのです。この例は、「ココロ」はより広域環境的でなければ意味がないということが、よく分かる事例ではないでしょうか?
現代社会は、「個人と個人という関係性においてのみの良い人」が「個人と全体という関係性においては悪人」であることが、バレるか、バレないか… という博打のような危うい状態で成り立っている砂上の楼閣です。

視覚障害者に暴力を振るう事件が続発しているのも、同根の問題でしょう。暴力を振るった人も、その人の周囲では、普通の良い人と見られているはずです。視覚障害者は目が不自由ですから、犯罪行為を立証するのが困難です。このケースはそこに付け込んだ犯罪です。現代社会では、「ココロ」の疎通が感じられない人が多いため、「バレなければ良い人」なのです。 カタカムナ的社会では、そんな「良い人」は認められません。なぜなら、確かに「ココロ」を感受しているからです。


◆ひと昔前は、カップル(当時ならばアベック)がカフェ(当時ならば喫茶店)で お茶を注文する際に、男性が店員に威圧的な態度にでれば、「なんて男らしい人!」と好感を持たれていました。(ステレオタイプの男らしさ)
ところが最近では、男性が店員にそのような態度を取れば、女性はがっかりして興醒めしてしまいます。そのため最近の男性には、そういった行為を慎む人が増えてきました。この傾向を年輩者の間では「腑抜け」「腰抜け」と見る人も多いようですが、私はこの傾向には賛成です。
ようやく現代社会の「ココロ」を取り巻く環境の「潮目」が変わってきたようです。カタカムナには、女性は常に男性に前駆する役割があると記されています。もし女性に正しい「ココロ」の判断ができなければ、男性はその要望に沿って、どんどんと愚かな行動を取るようになり、社会全体もその愚かな傾向性を示していきます。
女性の役割は非常に重要です。それは女性が男性化して社会進出するというような愚かな政策とは、根本的に意味が異なります。女性は女性の性質そのまま、ありのままで社会に必要な存在なのです。


「カタカムナは難しい科学書なのでは?」という人達のために、女性に関して、また別の例を示してみましょう。「女性は家にいて家事をしていればいい…」そういった風潮が日本にはあり、その反発として「女性の社会進出」という発想が進みました。「家事」は、それほど程度の低いものなのでしょうか?
これまでもご紹介してきましたように、カタカムナは、ジャンル分け(専門性)という観念が非常に希薄です。当然、科学と家事というジャンル分けも存在していません。もしそのようなジャンル分けをしたとしたら、その方が自然から遠いのです。
例えば、家事には料理があります。料理はかなり高度な科学の要素を持っています。食が健康と結びついていることは広く知られていますが、これは医学に通じますし、調理する際に、様々な食品を組み合わせることは、化学の分野で扱われることです。また日本の食文化は、発酵や天火干しなどの変成技術にも長けていますし、更にカタカムナでは、栄養や命の本質を「電気エネルギーの代謝」として示していますから、その意味では、料理は基本的には物理学であると言えます。
しかしながら一般的には、このような認識はありませんから、例え日本人の心情を料理に繁栄させたとしても、親から子へ、姑から嫁へ、代々家の味を伝えるというレシピの観点のみで語られてしまいます。
完全レシピ方式の問題点は、基礎的な物理知識が欠落しているために、その味を伝承することすら難しくなってしまうことにあります。定められた分量で調理しても、食材自体の甘さ辛さなども日々違うわけですから、定量を厳密に守っていても意味がありません。また、その食材そのものが天候不良や地域的問題などで暢達できない場合も、その味は終わってしまいます。
ところが、根本的にその「さじ加減」の意味を教えることのできるような、真に賢い親や姑が存在した場合は、様々な変動に対処できる「確かな味」「健康的な味」を伝達することができます。それは「私の命令に従っていればいい」というような昨今の嫁姑の関係性では難しいのです。年長者に汎用性のある知識があり、「ココロ」の伝達によって抽象的に相手に教えることができなければなりません。それができれば、食を取り巻く様々な状況が如何に変化しても、教わった人は、ちゃんとその時々に対応し、汎用的にアレンジしながらも、伝統の味を維持していくことができるのです。家事をする人には偉大な科学者の要素が必要なのです。(難しい特殊な科学用語を覚えるということではありません。その本質的な意味を知っているということです。)
もちろん、教わる側にも、その「ココロ」を感受する必要があります。それがなければ、いくら優れた先生であっても、その正確な伝授は難しいでしょう。

現代生活は「経済活動」に、その時間の大半を奪われています。本来は生活の代行的な意味合いでしかなかった「経済」が全ての中心になり、「生活」の目的そのものになってしまっています。カタカムナでは、「生活」は「クラシ」ですから、日々、地味なスポットの当たらないことの繰り返しです。
それを好まず、毎日がイベント続きのような生活を望んだ結果、年に一回のご馳走を毎日食べるようになって癌化し、日々の暮らしを好まず、外へ出て行くことだけが良いことのように錯覚し、ストレスを抱える人が増え、家事をする主婦の地位は、著しく低く見られるようになってしまいました。
カタカムナは、現代人が知る主婦(夫)像ではなく、真に賢い「昔の田舎のおばあさん」のような存在を目指していると言えます。それは、家事に対する現代人のイメージを遥かに超えた、優れた知見を有し、実行力も持ちながらも、他者の領分は犯さない分別を持つ… そんな人物像なのです。
日々の暮らしを金銭で他人に代行させることなく、全てを自分自身で賄えて、死ぬまで暮らしていける… 野生動物ならば当たり前のことを現代人は全く忘れてしまっています。
自分自身で生きる「クラシ」は、苦役などではなく、とても楽しいものですが、今現在の社会構造では、一気にそのような状況になることは難しいでしょう。しかし、少しずつでも、その方向を向くことが肝心だと思っています。
※「ク」に関してはこちらも合わせてご覧ください。より深く「クラシ」の意味を理解して頂けると思います。



カタカムナ文献にまつわる、様々な事例からも、「ココロ」を考察してみましょう。

◆「カタカムナはシンプルだ」と言えば、 何も感じていないのに「よし分かった! 天から言葉が降ってきて全てを一瞬で理解した!」と、安直な神秘主義思想で誤魔化し、「カタカムナは難しい」と言えば、「そんな難しい物理は必要ない。直感で全て理解できる!」と、高飛車な態度に出て、その無理解を誤魔化す人も多いです。
なぜ「誤魔化し」と表現したのかと言いますと、実際、そういった人達にカタカムナについて質問しても、トンチンカンな答えしか返ってこないからです。それどころか、まるで逆の意味を説明し始めたりすることさえあります。間違いを指摘すれば、大声を張り上げて、更に誤魔化し、最後には「私に逆らうことは、大いなる宇宙の力であるカタカムナの神の逆鱗に触れることだ。必ず天罰が下るであろう!」と、そう言った主旨の発言をされます。彼等の活動では、このような脅しが効果的なのでしょう。ところが「カタカムナ」ではそう上手くはいきません。感受性のレベルが違い過ぎます。

私も直感する時の瞬時性は認めます。そのような事象は確かにあると感じています。しかし実際のその状態と、それを演出した偽物では、あまりにその様子に違いがあり過ぎます。一番の違いはテンションの違いでしょう。
直感する時は、いつも必ず落ち着いた状態なのです。通常の脳活動が極限に低下した時に、その虚からの情報はやってきます。もちろんこれも「ココロ」の作用です。「カム」の領域の情報を循環によって得て、更にそれを「アマ」として再構築するという行程を瞬時(アマハヤミ)に行っているのです。これは前章でお話しした「抽象性能」の正体と言えます。ペンローズはそれを「アウェアネス、気付くこと」と呼んでいました。
ところが前述の偽物は、カタカムナのウタなどを祝詞、お経のように、唸りながら大声で読み上げ、最後に「エーーイ!!」と奇声を上げると、それが降りてくるというのです。これは「単純さ」「鈍さ」の問題として前述した、ステレオタイプのイメージの問題そのものです。どこかで見た霊能力者のイメージを模倣しているだけなのです。「テレビの見過ぎ…」と言っても過言ではないと思います。(それを言えば当人は「私はテレビのような低俗なものは見ない!」と言うでしょう。テレビは低俗… それもまた鈍い性質からくる類別の選択ミスです。テレビには低俗なものもあれば、優れたものもある…これが正解ですね。)
ここで改めて紹介するほどでもない、幼稚すぎる例ですが、案外このような「ベタ過ぎる演出」に引っ掛かることは多いのです。逆に言えば、それほどに感受性の鈍い世の中なのです。(騙すのは簡単ということです。)

芸術、スポーツ、学術研究などにおいて、また日常的な暮らしの一場面においても、この「直感」の感覚を経験したことがある人ならば、きっと、私のこの違和感に同調されることでしょう。偽物達は、この経験が全く無いために、フィクションの霊能者の雰囲気を模倣するしか手段がないのです。
(お経、祝詞の読み上げ方について問題を感じているわけではありません。内容が無いのにも関らず、その体裁だけ真似しても意味がないということをお話ししています。)

また前章で、待ち合わせで初めて合う人、飲食店でのメニューの選択…などの例を挙げましたが、こういったケースで、自分自身の盲動を神の力(あるいはそれに相当するような神秘の力)と勘違いするのも、このタイプの人達の特徴でしょう。もしそういったケースにおいて、広域環境(彼等が神様の仕業と思っている力)からの干渉があるとすれば、それは本人の盲動では無く、自然現象であったり、利害関係のない第三者の影響により、予定の行動が変更させられた場合のことです。こちらの場合ならば、「神のお告げ」と捉えてしまっても、あまり大きな問題にはならないでしょう。それは確かに広域環境からのお知らせなのですから。


◆「カタカムナは特別…」、そんな風に私が言っているように聞こえる人もいらっしゃるかもしれませんが、それは違います。カタカムナはただ自然をありのままに記述しただけのものです。もちろんカタカムナは、特異な表示方式を持っていますから、その意味では特別なのかもしれません。
しかしながら、前例のような「神秘主義思想の中で語られるカタカムナ」は、他の多くの新興宗教やスピリチュアルなどと大差ありません。流行りの服装と同じです。
マヤ文明、セドナ、熊野古道、右脳トレーニング、ヒーリング、自己実現などなど、挙げれば限がありません。
もちろん、それらの中にも、それぞれ真実があり、またその周辺には、それぞれ嘘や誤解も混じっているのでしょう。カタカムナも神秘思想の中で語られてしまっては、全くその内容は歪められてしまい、様々なその筋のブームの1つとして、嘘や誤解の方に流され、無意味に消費されていくしかありません。

真実を丁寧に拾っていけば、カタカムナでなくとも物事の本質に辿り着けると思います。しかし、なぜか嘘や誤解の方に惹かれていくのが神秘主義思想を持つ人達の特徴です。これもやはり「感受性」の鈍さが原因です。この章で「ココロ」を取り上げている一番の理由と言えるかもしれません。
カタカムナ文献は深く知れば知る程、そういった問題の根幹がハッキリと見えてきます。なぜ鈍い人達は、そういった指向性を持ってしまうのか? また、なぜその方向では破滅してしまうのか? それを知ることができるのです。このサイトでは、その読み取った内容の一部をご紹介しています。(感受性の鈍い人達は、いつも虚勢を張っていますから、持てる能力は全て誇示していますが、私達の読み取ったカタカムナの示す内容は、とてもこのようなサイトで全てを掲載できるような量ではありませんし、公開に適さないものもあることから、オープンなサイトとしてご紹介する内容は、自らの意志で限定させて頂いております。しかし、勘の良い方々ならば、ご紹介したいくつかの例から、その膨大な量を連想することが可能なのではないかと信じています。)

どんなことでも努力することは肝心です。ずる賢く立ち回る人よりも、愚直に努力する人は好ましいと言えます。しかし、もしその方向性が間違っていた場合はどうでしょう? 例えば、インドに住んでいたとします。仮に「カタカムナを知る」という方向が日本にあったとして、インドから日本に向かって、毎日毎日少しずつ少しずつ日本に向かって歩んでいく… これは好ましい努力ですね。反対に、最初の時点で何か勘違いをして、ヨーロッパの方向へ進み始めたらどうでしょう? これでは日々の努力は全く無意味などころか、増々カタカムナから遠ざかってしまいます。
「カタカムナを普及させるために、分かりやすく解説して努力をしてきた…」と、善意で、一生懸命、行動的に活動されている方もいらっしゃいます。その「一生懸命さ」や「努力の大切さ」を決して否定するわけではありませんが、もし方向性が間違っていたら、それはその人の言う「カタカムナを普及させるため…」というコンセプトから、どんどんと遠ざかり、逆にカタカムナを消滅させることに加担していることになっているかもしれません…。この問題に気付くも気付かないも、また「感受性」「共感性」に拠るのです。
カタカムナ文献には、そういった方向性が事細かに示されています。もし、その方向性を間違っていたならば、その人は、そもそもカタカムナを理解していないのですから、まだまだ世の中に普及させる段階ではないことになります。
安直な暗記方式や対訳方式で、「カタカムナを全文理解した!」と、勘違いで間違ったまま覚えている人よりも、例え一首だけでも、また、その一首の中の一部だけでも、正確に抽象し把握し、様々なことに汎用できる人の方が、よりカタカムナの本来性に近く、カタカムナの示す人間の有り様の方向を向いていると言えます。
現代社会の方向性が大きく切り替わらない限り、カタカムナを早急に普及させようとする行為は、カタカムナの本来性を変質させて、全く意味のない神秘主義思想へと変化させてしまいます。
ですから、カタカムナを政治的な数の論理(ひとりでも多くの人に… 最大会派… など)で語る人は、そのこと自体が、そもそも間違っているのです。もしこのサイトをご覧の方で、この傾向の発言をする人に遭遇した経験があるようでしたら、それはカタカムナを知るには、かなり遠い人物だと思っておいた方が無難です。

イルカは知能の高い生物だと言われていますが、集団で浜にうち上げられて、大量に死亡していたという事件が、時折報じられています。普段イルカは額にある感覚器官で、様々な危険を察知しているはずです。このような事件が起こる原因は、より広域環境に判断を委ねる…という本能が、脳の判断のバグにより、少し広い環境である「集団、群れ」の判断に片寄ったことに拠ると言えます。人間社会は、今、このイルカの集団自殺行為に似た状況にあるわけですから、カタカムナ文献について、人間社会よりも広域な環境に参照する(アマテラス)ことができないでいるのです。

もし全ての人が高い「共感性」「感受性」を持ち、正しい「類別の選択」をするのならば、こんなサイトは既に必要ないでしょう。様々な例を挙げて、その詳細をいちいち説明する必要もありません。
ところが、このような発言をすれば「こいつは今、自分でこのサイトは必要ない…と言ったぞ! だからこのサイトの内容は間違いだ!」と、揚げ足取りのように受け取る人達や、このサイトの「その信憑性についての考察3」において反意的に「だって楢崎皐月は屑なのですから…」と説明したことを受けて、「こいつは楢崎先生を愚弄した!」と、「単純さ」「鈍さ」の問題から意味を真逆に間違えて受け取るような人達がいることなどを考慮しますと、やはりこの現代社会は、まだまだ「カタカムナ」について詳細に説明をせざるを得ない状況だと感じています。
また逆に、「自分は感受性が強いと思っていたが、このサイトの説明を見て、カタカムナに比べれば、まだまだかもしれない」と感じた人達もいます。そういった人達に対しては、このサイトが良い参考書となれるよう心掛けていきたいと考えています。

◆言霊、気付き、言葉が降りてきた… このような表現をすると、そこに陶酔する感覚に溺れる人達がいます。それは一般的には普段使用しない言葉だからです。仲間内だけの隠語に酔うのは、若い世代だけの感覚ではありません。その言葉を使えば、それだけで何か特別な存在になれる… またその仲間として認められる…と、錯覚してしまう人は、どの世代にもいます。
言霊について、「言葉に本質的な意味がある」という感覚を持つことは、全く問題ありませんが、「言葉は神秘な力が宿っている神の存在」と感じてしまえば、そこで感受性は停止してしまいます。 多少の表現の違いがあっても同じです。前者と後者の違いが感じられないならば、それは「類別の選択」ができていないのです。
ペンローズも後者の意味で「アウェアネス、気付き」と呼んだわけではありません。
かつて宇野氏と「哲科学、直観物理、思念」などの名称(カタカムナを説明するにあたって、相似象会誌で使用された言葉)について話し合ったことがありました。宇野氏、楢崎氏としては、誤解のないよう今までの用語とは別の造語を当てて、神秘主義思想とは一線を引こうとした行為であったが、今度はその言葉自体が信仰の対象のようになってしまった…と、宇野氏はおっしゃっていました。こういった内省性は宇野氏の美徳ですが、この「専門用語的な響きに酔う世間の傾向性」については、引き続き注意しなければなりません。

ちなみに、カタカムナ文献に「言霊」という表記はありませんが、「コト」と「タマ」という言葉は頻繁に登場します。「ある環境において、背景となる環境と繰り返しエネルギー循環される事象は、その該当環境に粒子的に発生したように観測される…」というのが、その「コト タマ」の概要です。言葉も繰り返し使われて定着しますので、その音が当てられたのだと推測されます。神秘主義思想の人が望むロマンはそこには微塵もありませんが、感受性の高い人には、また別の興味が想起され、そこにちゃんとロマンも感じられるのではないでしょうか?

カタカムナ文献の示す物理に拠れば、「コトダマ」という響きには、神秘主義思想の人達が期待する霊的な意味合いは無く、むしろ現代語の「言葉、事象」に近い意味を持っています。仮に、神秘主義思想の人達の主張したい意味合いを汲んで表現するとすれば、それは「コトタマシヒ」と言うべきでしょう。「シヒ」が付いて、はじめて「コトタマ」が電気観測に反応しないことを意味することになるのですから…。
この辺りを混同している人達が、カタカムナを語ることは大変危険です。真逆な方向性を主張することになるからです。当人達が言霊思想を主張することは、その当人達の感受性に関ることなので止ようもありませんが、「カタカムナは言霊だ!」と、彼等がカタカムナ文献について主張することは、文献の内容を知る立場からしますと、それは全くの間違いですから訂正するべきだと考えています。
おそらくカタカムナ文献は、言霊信仰、数霊信仰などが発生した原因となったルーツの1つなのでしょう。しかしそれらの信仰は、カタカムナ文献の示す内容の本質部分を理解できなくなってしまった後代の人間が「曲解した結果」なのであって、楢崎氏や宇野氏がその本質を解読し、再び元に戻した後に、またわざわざ間違いの方へ向かっていく必要は無いように思われます。もしどうしても言霊や数霊を「信仰したい」ということならば、カタカムナ以外のところで、それをすれば良いはずなのですが… 奇妙なことに、彼等はカタカムナの持つ高度な物理背景を借用したい欲望が強く、ご都合主義で、調子良く美味しい部分のみ取り入れて、肝心要の部分は感受性レベルの低さ故に、それが理解できないため(あるいは、今さら信者達にこれまでの信仰の変更を言い出せないため)に、カタカムナ文献の解釈を無理矢理に変更する…という状態にあるのです。
また、今このサイトをご覧になっている方々の中にも、そういった「信仰」をお持ちの方がいることも重々承知しておりますが、その方々が真に高い感受性をお持ちならば、これをきっかけに「カミ、源流」方向へ修正することができるはずです。カタカムナ物理は、方向性という観点を非常に重要視しています。方向性の軌道修正力も、また優れた感受性の1つだと言うことを是非ご理解頂きたいと思います。
「私は最初から何でも知っていて全て正しい」というスタンスで、無知や勘違いを誤魔化すよりも、素直に感覚に従い、それまでの違和感を正していく方が、より感受性レベルが高いことなのです。もしその違和感を全く感じないのであれば、それは感受性の性能の問題ですから、赤ん坊からやり直していくより仕方がありませんが、それを確かに感じている方々には、なぜ言霊などの信仰が生まれたのか? そしてそのルーツには如何なる物理背景があったのか? そういったことを包括して理解できるよう、是非カタカムナ文献を学んで頂きたいと思います。 そうすれば、徒に片側のみを批判するような「浅はかさ」からは遠ざかり、正しい「類別の選択(抽象性能)」を発揮して、今現在、言霊などを信仰している人の中にも、「マトモ」な人と、そうでない人がおり、また、言霊などの信仰の中にも「マトモ」な部分が残っている箇所と、間違っている箇所があることを、きちんと認識できるようになります。
「マトモ」な人達は、そのポテンシャルによって、ちょっした「きっかけ」さえ与えられれば、ちゃんとカタカムナ文献(ありのままの自然)の示す方向へ舵をきり変えていくことができるのです。

(楢崎氏、宇野氏の言霊信仰、神、霊などについての見解例→ 相似象、第2号110P及び52P、第6号198P及び231P、第15号3Pなど、※ここに挙げた例以外でも至るところに記述されています。)



カタカムナも現代社会に存在している文化の1つには違いありません。マイナーな存在とは言え、それは事実です。世の中を見回してみれば、どんなジャンルにも「マトモ」なものと、そうでないものがあります。カタカムナを取り扱う人達についても、それは同じことなのでしょう。「マトモ」なものと、そうでないものがあるのです。そういった世の中で、「マトモ」な人が周囲を見回して、あまりに鈍いことや酷いことの数の多さに、「ひょっとしたら自分の方が間違っているのではないか?…」そんな不安に襲われることもあるのではないかと思います。「マトモ」な人は往々にして他人に合わせようとしてしまうからです。(アワの性質)
そんな時に、「マトモ」な人達の言動を支持する受け皿のようなものが1つでもあれば… できる限り「マトモ」になれるよう努力して、このサイトがその役目を果たすことができれば…と、微力ながら、そんなことも考えています。(この発想は、天から与えられた自分にしかできない使命がある…というような選民思想とは異なります。自然環境において自分達人間を生かしてもらうために、より広域な環境に照らして、自らのなりふりを決める…という、生物としての最低限の行動でしかありません。)




ここまで、様々な事例を挙げて、ご説明してきましたが、それらについて「私の周りには、そんな悪い事は1つもない! だから、ここで紹介している事例は間違いだ!」とおっしゃる方がいらっしゃいましたら、それは全く他者への共感性が無いことの証明となってしまいます。その方の身近には、たまたま良い人や良い事が多いとしても、世の中には不幸な境遇が溢れているのです。そういったことに興味や関心が無い、または連想が及ばない…ということは、排他性、自己中心性の現れなのですから…。
また、真に感受性の強い人達には、このような事例の説明は、今さら言われるまでもないことでしょう。しかし、真に感受性の強い人達は、「今さらなんだ!」という反発ではなく、「世間では、そういうことはよくあるなあ…」と、共感し調和するのです。それが自分の該当例でなくとも、彼等はちゃんと連想できるのです。

また、この章でお話してきた事例を確かに感じている場合に、直接の問題のある人物にそれを伝えることはなくとも、第三者にそれを話すべきか?という問題があります。一般的には、 第三者にこのような事実を話すことは「悪口」となってしまいますね。
しかし、それを控えれば、感じる能力はあっても、「みんな良い人」のパターンと同じことになってしまいます。なかなか難しい状況ではあるのですが、相手に自分と同等以上の感受性があるならば、きちんと話すべきなのでしょう。
相手にとって未知の人物で、自分は知っている人物であった場合、「あの人はどんな人?」と聞かれることはよくあります。そんな時に、かなり大きな問題のある人物であることが分かっているのにも関らず、「あの人は凄く良い人ですよ」と答えることは、果たして正しい行動と言えるのでしょうか?
より広域な方向性で、その善悪を参照すれば、「この先、相手が、その問題のある人物から被る被害」と、「今、悪口(真実)を言った…ということ」この2つの間で悩む必要はありません。相手に「私のためを思って話し辛いことを教えてくれた…」ということが理解できる共感性さえあれば良いのです。またそのような会話が可能な人を友人とすべきです。


このサイトをご覧なった方々は、 この章の冒頭の質問「あなたに友達はいますか?」に、どのように答えるでしょう?
きっと「私には凄くたくさんの友達がいる。みんないい人!」と言う方もいらっしゃるでしょう。それが事実ならば素晴らしいことです。しかしながら、もし単純さや鈍さからくる判断ミスや、事勿れでそのように答えているのならば、その方には友達は全くいないことになってしまいます。また、その「全くいない」ということが朧げに分かっている恐怖心も、そのような発言を生む原因なのかもしれませんね。
私ならば、こう答えます。「数は少ないですが…います。」
正直なところ、これが現代社会の平均的な現状なのではないでしょうか… そしてこの数少ない「ココロある信頼に足る人物」こそが、現代社会の救いであり、本当の意味でカタカムナを理解できる人達なのです。

 



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